隠密の眼
勉強会が終わり、ジブリールさんは深夜の祈りのために部屋へ戻っていき、調理場にはオイレさんと私だけが残された。
「それで、ラッテにはネーベルの監視を解かせたって言ったよね? それがヨハン様のご命令だったの?」
「いえ……実は、オイレさんがラッテさんに届けたギリシア語の紙にはラッテさん宛ての命令は書いていなかったんです。書いてあったのは『自分が思うことを伝え、思うように行動せよ』……これは、ヨハン様が私に宛てた言葉だと思いました。思ったことを伝える相手がラッテさんだったのではないかと」
私の答えにオイレさんは目を瞠ると、納得したように苦笑した。
「なるほどねぇ……ヨハン様の悪い癖だね、すぐ人を試したがる」
「やっぱりオイレさんもそう思いますか?」
「昔からだよぉ。でも、瞬時に考えてそんな答えを出すってことは、ヘカテーちゃんも成長したんだねぇ」
「……ヨハン様やロベルト修道士様に、鍛えていただきましたから」
「謙遜しなくなったのも、いい傾向だよ」
そういわれて、私は自分が誉め言葉を受け入れていたことに気づいた。しかし、絶対的な実力ではなく、相対的な話であれば成長したのは事実だし、それは私自身の努力よりもロベルト修道士様の教え方のうまさが大きいと思う。素直に受け入れたいと思った。
私はオイレさんに、何故ラッテさんに監視を解くよう伝えたか、そしてなぜ代わりにヤープに見張ってもらうのかを説明する。オイレさんは何度もうなずきながら私の話を聞いてくれた。
「ラッテの部下による常時監視を解いて、経緯を何も知らないヤープに裏切りの瞬間を見張らせる。いい考えだと思うよ。他に、何か気になることはない?」
「私が考えたのはここまでです」
「じゃあ、今考えて。本当にそれだけで大丈夫?」
「え……」
オイレさんの眼が不意に鋭くなる。この案にはどこか穴があっただろうか。
「言い方を変えようか。守るべき人を忘れていないかな?」
「守るべき人……」
その言葉に、急激に不安が心を支配した。誰かが危険にさらされるということか。一体だれが?
私は、もし自分がネーベルだったらと考えて、目立った行動はしないはずだと結論付けた。ヨハン様に裏切りを疑われたり、皇帝に寝返りを疑われたりしないためには、それが最善策だと思ったからだ。
しかし……ネーベルは私よりも遥かに攻撃的な人物である。長年の仕事仲間であったはずのマルタさんを躊躇なく自分の判断で殺してしまうほどに。
そして、よく考えれば、裏切った後はこの地にとどまる必要はないのだ。必要なのは裏切りに気づかれないことであり、気づいて止めようとした人物は殺してしまっても、その死がヨハン様に伝わる前に情報を皇帝側に渡してしまえば裏切りは成功する。また、それを実現するだけの実力もある。
となると、危ないのはだれか。監視の命令を解いたことにより、ラッテさんの部下が殺されてしまう可能性は潰せたはずだ。他には……
「シュピネさん!」
「あたりぃ」
シュピネさんは、ヨハン様の命令でネーベルと親密な関係でいる。そして、彼女の優秀さであれば、裏切りの気配にもすぐ気づいてしまうだろう。それこそ、女の勘など得意中の得意なのだから。もともと、シュピネさんをネーベルと仲良くさせたのは、シュピネさんは殺して奪わずとも自分に情報を流しているとネーベルに思わせるため……つまり、シュピネさんをネーベルから守るための策だった。しかし、当の本人はそのことを知らない。信用ならない隠密を監視するためと思っているだろう。そして、裏切りに気づけば阻止しようと動いてしまう……命がけでも。
「シュピネさんに、ネーベルをしばらく泳がせるから、妙な動きがあっても見逃してほしいと伝えてください」
「このオイレ、しかと承りました」
オイレさんはおどけたように大仰なしぐさでお辞儀をする。その姿には、これまでの緊張をすべて解きほぐすような安心感があった。




