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母と娘

 ヨハン様たちの背中を見送ったのち、私は部屋に戻ると、そのまま藁袋(ベッド)に倒れこんでひとり考えごとをした。ヨハン様やご領主様、ティッセン宮中伯が協力して皇帝に仕掛けた、国の行く末を左右する大きな罠……ロベルト修道士様に鍛えられて、ある程度は貴族の社会にも対応できるようになっているかと思っていた私だったが、想像を遥かに越える壮大なお話だった。


 この作戦の要として、ティッセン宮中伯夫人の働きが期待されている。ヨハン様は夫人について話に出すとき「お前の母親だ」とおっしゃったが、私には未だ、夫人が自分の母親だという意識はあまりない。私にとって親とは父だけだったし、父は母の分まで私を愛してくれた。私は自分の出自に特に疑問を持つこともなく、ただの商人の娘として14年間生きることを許されたのだから。


 気づけば、自分の出生の秘密を知って2年以上が経つ。出自を口外できない私に与えられたのは、アウエルバッハ伯の庶子という、やはり貴族の娘としての立場だった。そして、それまでのやり取りで無意識に貴族らしい(・・・・・)思考回路を発揮していたらしく、ヨハン様を支える者として、政治的な面でも関わることを期待されている。


 僅かながらも私にもそうした才があったのは、社交界の華にしてティッセン宮中伯の隠密であるという母の血なのだろうか。それとも、優秀な下級騎士(ミニステリア-レ)であったという父の血なのだろうか。あるいは、百戦錬磨の遍歴商人から成りあがった祖父の狡猾さを受け継いでいるのだろうか。


 ……どうにも私は、自分に流れる血について考えることから、解放してはもらえない運命にあるらしい。


 顔も知らぬ母親のことを想像してみる。領地の特産品であるウォードをふんだんに使って染め上げた、鮮やかな青の衣服(ブリオー)。歩くたびに、大きく広げた優雅な袖口が、長い裾と擦れ合う音が小気味よく響く。艶やかな長い髪が揺れ、釘付けになる人々を軽くあしらうように冷たく輝く紫の瞳。そして、お家の利となる人物を見つけたときにだけ、赤くふっくらとした唇から、こちらにいらっしゃい、と涼やかな声が漏れるのだろう。


 やはり、自分にそんなふるまいができるとは、到底思えなかった。ティッセン宮中伯夫人に限らず、貴婦人とはきっと皆そのようなものなのだろうが、やはり素養だけでなく、幼少期から場数を踏むことが重要であるように感じる。社交界に足を踏み入れるどころか、遠くから見たことすらない私には、全てが想像に過ぎない話ではあるが。


 とはいえ、私に期待されている役割は、貴婦人として立ち回ることではない。ヨハン様がより的確な判断を下すことができるよう、横から気づいたことを助言することだ。私という女が政治に関わるといっても、それはむしろ貴族の娘というより、次男や三男に任されるような役割だ。自分の立場が可笑しくなって、私は少し笑った。


 そういえば以前にも、ヨハン様は医学を学ぶことに対し尻込みする私に「女に教養があって悪いことなど一つもない」と諭されたことがあった。今では私もそのご意見には賛成だ。市井で学をつけることが嫌われるのは、主に貴重な時間を労働以外に割くことに対する嫌悪であって、その点では男も変わらない。勉強会の面々が少々煙たがられているらしいのが良い例である。都市の上位層であれば読み書きはできるし、貴族の女性であれば本を読んだりもするだろう。無論、女が学ぶことに対する障害は男の比ではないが、悪賢くなる、恋文を書くようになるなどの意見には私も懐疑的である。もしそうならば、修道女は何故高い教養を持てるのかという話だ。合理的な理由で教養から遠ざけられているのではなく、単に「女は学ばない方が良い」という慣習があるだけのように思う。


 そして、ヨハン様は論理的裏付けがない事柄を一笑に付すお方だ。適性があると判断すれば、女に男の役割を振ることにも躊躇いはないのだろう。


 そう考えると、私はティッセン宮中伯夫人とは真逆の道を歩んでいるようにも感じられた。夫人の役割は、女でなければ成しえぬものだ。女として表舞台に立ちつつ、男の世界には立ち入らない。妻たちの優雅な会話の中で巧みに主導権を握り、夫の指示通りにことを運ぶ……女としては身を潜め、男の側に立って人知れずヨハン様をお支えする私とはまるで反対。ティッセン宮中伯は、「夫人」という立場にある駒を持っていたからこそ、今まで周囲に警戒されずに力を付けてきたといえる。


 いずれにしても、もっとしっかりとヨハン様のお役に立てるようになりたい。医学も政治も、ただ知識をつけるだけではだめだ。頭を働かせて、その場に応じた判断ができるようにならなければ。私は藁袋(ベッド)から身を起こし、机に向かった。今は医学書の執筆に取り組もう。

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