血のなせる業
よく考えると、床屋や歯抜き師も賤視される職業だ。死に関わる刑吏や皮剥ぎ人はともかく、人を救う彼らを、私たちはなぜ卑しいものだと考え、納得しているのだろう。私は両手を持ち上げて自分の手のひらを見る。フリーゲさんの傷、そして3つの遺体の傷を縫った手。別に汚れているとは思えなかった。
こんな当たり前のことに疑問を抱くのは、私が異邦の血を引いているからだろうか。それとも、異邦の学問に携わってきたからだろうか。
……おそらくは両方だ。今こんなことを考えているのは明らかに医学の影響だが、その医学を比較的すんなりと受け入れたのは私に流れる血故だ。異邦の、というよりは、戦いに長けた父や祖父の血が、新たな世界に触れることを恐れさせなかったのだ。
そういえば、私の母……ティッセン宮中伯夫人はどうしているだろうか。祖父の寄越した紙切れをきっかけに、イェーガーのお家とティッセンのお家は、互いに当主を城に招くような間柄となった。その後の具体的な動きは聞いていないが、いずれは皇帝をその帝位から引きずり下ろすことを前提とした協定を結ぶはずだ。すると、その派閥を大きくするために、夫人も社交界で裏から各お家に手を回すことになるだろう。どのお家の夫人も多かれ少なかれその傾向はあるだろうが、ティッセン宮中伯夫人は殊更に政治的な工作を担う役割が大きい。夫人同士の交流からお家の関係性を望むものへと導いたり、服の流行を作り出して経済をも動かしてしまったり。ヨハン様は事実上宮中伯の隠密だとまでおっしゃっていたほどだ。
ヨハン様が塔にいらした頃、そしてロベルト修道士様に教えを乞うていた頃は、私も政治に関わることになるのかもしれないと思っていたこともあった。実際、ヨハン様もそのようにお考えだったはずだ。隠密の方々によってもたらされる情報から、何が起きているのかを考え、すべきことを判断する、ヨハン様の補佐としての役割。母親であるティッセン宮中伯夫人の立場を考えると、それは運命的な道のようにも思えたのだ。
しかし、ヨハン様が居館に戻られ、私は塔の中。私は表立って政治に触れられる立場でもなくなってきている。隠密の集合場所は相変わらずこの塔ではあるが、ヨハン様が私に意見を求められることが今後あるのかどうか……
頭を横に振る。今は先が見えないし、考えて答えが見つかるとも思えなかった。ヨハン様に求められる機会があるまでは、おとなしく医学にだけ取り組んでいよう。医学書の進捗はめっきりだ。これを少しずつでも進めていかなければ。
私はこれから作る医学書を、第二部の外傷の治療についてから執筆を進めていくことにした。昨日学んだ内臓の縫い方や、今日学んだ皮膚の治療と血液の移動についてなど、治療については学んだその日にまとめていった方が早いと思ったからだ。ジブリールさんから聞いたことをわかりやすくまとめ、書き終えたら解釈が違うところがないかを彼に確認してもらう。
この進め方には、記憶の新鮮さだけではない利点がある。勉強会と連動させることができるところだ。私に理解できなかった部分は、ほかの参加者も同様である可能性が高い。次の勉強会までにまとめる作業とジブリールさんへの確認を済ませてしまえば、話の流れを分断せずに訂正や補足ができる。
それに、第一部の身体の構造については、体部の有用性を簡略化し、誤りを正せば良いので、後回しにしても問題がないと思われた。
早速執筆に取り掛かる。まずは内臓の縫い方についてからだ。
いざ書き進めていくと、その場では理解したつもりでも漏れていたことが明らかになる。例えば、なぜ二種類の腹膜は別々に縫わなくてはならないのか。傷が腸に達している場合に致命傷になるというのは、そこから食べ物を溶かす液が流れ出てしまうからという理解であっているか、等々。その場の会話としては成立していても、覚えたことをただそのまま記すだけでは、きちんとした解説にならないのだ。
粗方まとめたところで、ジブリールさんに質問に行こうとペンを置くと、4階から声が聞こえてきた。どうやら祈りの時間らしい。歌声のような異教の祈りを聞きながら、私はこのヨハン様もうらやむ贅沢な環境を、最大限に活用していこうと決意を新たにした。




