隠密
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「ヘカテー、どうやら父親のみならずお前も狙われているようだな」
鋭い視線が私に突き刺さる。
「改めて問うが、何か隠していることは?」
「いえ何も……私もなにがなんだかわかりません……」
ヨハン様は席を立ち、私に詰め寄ってくる。以前、文字について聞かれた時と同じ目だ。
「この本は祖父の遺品といったな? 父方の祖父で間違いないか?」
「はい」
「祖父が死んだのはいつだ?」
「私が生まれる前と聞いております。具体的にはわかりません」
「祖父と父はどこの出身だ?」
「それは私にもよくわからないのです……容貌からして外国の出身であろうことは認識しておりましたが、父は過去をあまり語りたがらず……申し訳ありません」
「ふん、そうか」
ヨハン様はやっと視線を外してくださった。
「そこにいるオイレという男は、俺の配下、つまり隠密のひとりだ。しばらくお前の周囲を探らせる。お前はまだ休暇中だが、仕事はしなくても構わないから、このまま塔にいろ」
「いえ、そんな……ここに置いていただけるのでしたら、引き続き業務にあたります」
「そうか。では休暇は取り消しておく。それにしても面倒ごとは続くものだな。さすがに少し堪えた」
ヨハン様は深くため息をつくと、珍しくテーブルに突っ伏すように姿勢を崩された。おっしゃる意味はよくわからないが、最近は随分とお忙しいのだろう。相変わらず目の隈が濃く、顔色もかなりお悪い。頬も少しこけているような気がする。
ちらりととなりのオイレさんの様子を伺うが、表情に変化はない。
「あの、差し出がましいこととは存じますが、ご体調がすぐれないようにお見受けいたします。よろしければ温かい蜂蜜酒でもお持ちいたしましょうか」
「いらん。今それを飲んだら寝てしまいそうだ」
「少しお眠りになられたほうが良いのではないでしょうか」
「いや、まだやらなければいけないことがある。何、たかが3日程度どうということはない」
「……申し訳ございません」
これ以上進言するわけにもいかないので引き下がったが、3日寝ていないということだろうか。ご領主様からのお手紙以来、相当忙しくされていることは承知していたが、塔にこもりきりのヨハン様にそこまで体力があるはずもない。さすがに心配だ。
何かできることはないかと考えていると、くく、と笑い声が聞こえた。
「全くお前は能天気なものだな、さっき殺されかけたばかりだというのに。俺のことはいいから自分の心配をしていろ。またいつ窓から変なものが飛び込んでくるかわかったものではないんだからな」
「ありがとうございます。過ぎたことばかり申し上げ、大変失礼いたしました」
「別に叱ってはいない。その謝り癖もどうにかしておけ。二人とも下がってよいぞ」
こんなにも心を砕いていただいたのに、私の危機感のなさで失望させてしまっただろうか。少ししゅんとしてしまったが、オイレさんがさりげなく退室を促したので、大人しく部屋を出ることにした。
部屋を出ると、オイレさんはうーん、と伸びをして表情を和らげる。部屋に入る前と同じ雰囲気だ。やはりこちらが素なのだろうか。
「いやぁ、何度お話しても緊張するよねぇ。優しい方なんだけどねぇ」
「ヨハン様とはよくお話されるんですか?」
「うん。ほんと、あの方は頭脳も精神力も普通じゃないよぉ。こんな狭い塔の中で、ちょっとした情報から全部お見通しでさ。僕より10歳ぐらい下のはずなのに、風格ありすぎだもん」
「……オイレさん、そんなに年上だったんですね」
「えぇ? 僕って結構若く見える? もしかして僕ってかっこいい?」
「そういう意味ではないです」
若く見えているのはこのおちゃらけ具合が原因で、部屋でヨハン様とお話されていた時にはしっかりとした大人の雰囲気があった。正直に言うと、振り幅が大きすぎて、かっこいい・悪いというより胡散臭く見えている。命の恩人なだけに、口が裂けてもそんなことは言えないが……
「オイレさんって、ヨハン様の隠密なんですよね?」
「そうだよぉ、もちろん内緒だけどねぇ」
「ケーターさんってご存じですか?」
少し気になっていたことを訊いてみた。
ヨハン様は前回、窓からメモを投げ入れたのはケーターという人だといったが、今回その人の話は出てこなかったからだ。
しかし、その名を聞くとオイレさんの肩がびくりと震えた。
「ケーターなら、今、地階にいるよ」
返事をする声は北風が吹き込んだかと思うほど冷たく、私はぞわりと鳥肌が立った。
地階、つまり、塔の1階。そこは平時は倉庫であり、戦時には牢獄となる場所だ。
普段私たちが2階から梯子で出入りしていることからわかるように、地階には窓も扉もなく、あるのは板でふさがれた天井の小さな穴だけ。一切の光が差し込まず、蛇や毒虫が這いずり回る空間だ。そこに投獄されたものは心身ともに無事ではなく、ある城で塔の地階に1年幽閉されたものは、出てきたときには白髪の老人になり果てていたという話も聞く。
「まだ昨日の今日だけどね。あの駄犬、自分から捕まりに来ておいて、何一つ喋ろうとしない。今日もこの後で話を聞きに行くけど、うんざりするよ」
「話を聞く……って、まさか!」
「ねぇ、ヘカテーちゃん。君の立場は少し不思議なところはあるけれど、君はあくまでメイドのお嬢さん、表の仕事の人だ。僕らとは違う」
静かに、そして淡々と語るオイレさんは、先ほどまでとも、ご報告の時とも違う顔をしていた。
「知らないほうが安全でいられることも、たくさんあるんだよ。今日だってそうだ。たった一人の家族のことだから、ヨハン様やクラウスさんは、君の心情を慮って実家を見に行くことを許してくださったけど、本来なら僕が一人で確認したほうが10倍速かった」
「そんな、私は……」
「何も知らなかったし、考えていなかったんだよね? うん、それでいい。自分で動こうとしすぎれば、そのうち足元を掬われる。ヨハン様が君を守ると決めたなら、君は余計なことは考えずに守られていたほうがいいんだ」
そこまで話すと、オイレさんは急に一段とびで階段を駆け下りて勝手に私の部屋の扉を開けた。
「それでは、お部屋はこちらになりまぁす」
おどけた調子で大仰なお辞儀をする役者ぶりに、私は彼が隠密たる理由をなんとなく感じていた。
> よろしければ温かい蜂蜜酒でもお持ちいたしましょうか
当時、蜂蜜酒は水代わりやお酒としての用途ではなく、病人食や疲労回復のためのエナドリ的存在だったそうです。




