あなたの特別に
遅くなりまして申し訳ございません!
今回、遺体についての詳細な描写があります。苦手な方はご注意ください。
それから、年が明けて半月と少ししたある日、オイレさんが塔を訪ねてきた。肩には大きな麻袋。
「やぁ、元気にしてたぁ?」
能天気に声をかけて来るオイレさんだが、それはつまり、解剖用の遺体が手に入ったということだ。年明け早々に新しい遺体が手に入ってしまったということに、私は少し複雑な気持ちになる。
調理場に移動すると、オイレさんは珍しく躊躇するようなそぶりを見せ、袋をそのまま床に置いた。
「解剖用の遺体ですよね? 袋から出さないのですか?」
「うーん、それがねぇ……ちょっと君にいきなり見せるのも気が引けるというか……正直、初めての解剖にも向いていないかもしれないんだよね、この人」
「腐敗が進んでいるということですか?」
「いや、新鮮そのものではあるんだけど……死因が飛び降りだったみたいでさぁ」
その言葉に、私は状況を理解した。
「お気遣いありがとうございます。覚悟はできたので、私は大丈夫です……ただ、高いところから落ちて、内臓は無事なものなのでしょうか?」
「それはちょっと、開けてみないとわからないねぇ。まずは刃を入れてみて、駄目だったらそのまま中止ってところかな」
オイレさんは慎重に袋からそれを引き出す。静かに顔をのぞかせたそれは、まだ年若い青年の姿をしていた。頭の四分の一ほどが崩れ去り、首は妙に長く伸びてあり得ない方向へぐにゃりと曲がっている。口は開きっぱなしで舌がはみ出し、顔中に赤黒い血がこびりついていた。
思わず身震いしそうになるのを何とかこらえる。
「やっぱり君は強いね。声ひとつあげないなんて」
「これほどまでに姿が変わってしまっていても、もとは十数年の人生を生きていた一人の人間ですから。それも、医学のために自らの肉体を捧げてくれる人となれば、敬意をもって接しなければなりません」
「……そういう考えを国中の皆が持っていたら、ヨハン様もこんなに苦労しなくて済んだんだろうなぁ」
オイレさんは調理台の上に彼を置き、傍らに腰かけると、慈しむような眼差しでさらりとその髪の毛を撫でた。
「多分この子は、自分が死んだ後のことなんて微塵も考えてはいなかったんだろうけど……きっと天国、少なくとも煉獄に行ける」
「ええ、その通りです」
「ヨハン様のお取り計らいのおかげだ。あの方はご自分が少しでも関わった人間なら、生きていようが死んでいようがお構いなしに片っ端から救っていってしまう。とんでもないお方だよ」
楽しそうに響く笑い声。しかし琥珀色の瞳はどこか物憂げに遠くを見つめている。
「オイレさん、どうかしたのですか? 浮かないお顔ですが……」
「ああ、わかる? さすが君はよく見ているね。いや、隠す気もなかったんだけどさぁ。ちょっとだけ感傷に浸ってたんだよ」
おどけたように広げられる両腕。
「僕、今考えると君に嫉妬してたんだよねぇ。で、今度はビョルンに嫉妬してる。この気持ち、君ならわかるんじゃないかと思って、こうして雑談しに来てるってわけ」
「嫉妬、ですか? それも、以前は私に……?」
「うん。呆れた?」
「いいえ、全く。でも理解が追い付かなくて」
私の返答に、オイレさんは今度こそ本当におかしそうに笑った。
「僕ねぇ、多分、ずっと驕り高ぶっていたんだ。君がやってくるまで、自分のことをずっと特別だと思ってた。ラッテやシュピネみたいな先輩もいたけど、学問には疎かったし、僕の立場はずっと特別扱いみたいなもんだったしね。僕の後に入ってきて、隊長の座に上り詰めたのはケーターだけで、彼も武闘派だった」
「それは……実際、特別ではあると思います」
オイレさんはヨハン様が医学を志すために新たに雇ったと聞いたことがある。ご領主様の時代から仕えていたラッテさんやシュピネさんと違い、ヨハン様がご自分で雇われた隠密だ。
「いや、特殊な立場という意味ではそうなんだけど……心のどこかで仲間たちを見下して、自分がヨハン様の一番のつもりでいたのさぁ」
なるほど、と思った。それも仕方がないと思う。実際、傍から見ていてもヨハン様はオイレさんに対する特別扱いを隠す気もなさそうだ。公私ともに一番近くに置いている人はだれかと問われれば、オイレさんであることに間違いはないだろう。
「誰よりもヨハン様に気に入られていて、誰よりもヨハン様を理解しているつもりだった。その勘違いを最初に正してくれたのは君の存在だよ、ヘカテーちゃん」
「それは……」
「突然現れて、いつの間にか僕よりはるかに近くにいた君を見て、僕は鼻っ柱をへし折られた。しばらく観察するうちに、ヨハン様と君の関係は僕が望むものとは別だってことに気づいて、納得したんだけど……それでも配下の中では一番だと思っていた矢先に、ヨハン様が塔を出ることになって、気づいたら一番近くにいるのは僕じゃなくてビョルンだ。またしてもぽっと出に欲しい座をかっさらわれて、僕もうくじけそうだよぉ」
乾いた笑い声が、調理場に悲しく響く。その気持ちは、確かに痛いほど理解できた。わかってはいる。ビョルンさんは別にぽっと出の存在ではない。立場上お傍でお仕えできなかっただけで、今までも大変な活躍を見せてきたのだろう。
それでも、私たちはヨハン様の一番であることを望んでしまうのだ。私も、男性であるオイレさんやビョルンさんに嫉妬はしないが、いずれヨハン様が奥様を迎えられた時のことを考えると、胸が張り裂けそうになる。
「私たちは、欲張りですね……」
「そうだねぇ」
少しばかり耳に痛い静寂。
「……でも、ビョルンさんだって医学はできません。仮に一番でなくても、私たちは学問で、ヨハン様の特別になりましょう!」
「ははは、それもそうかぁ」
それから他愛もない話を二三して、オイレさんは帰っていった。去り際、明日もよろしくねぇ、という笑顔に、私は深い親愛を覚えた。年も立場もまるっきり違うが、これからは彼を密かに友だと思うことにしよう。




