目の前にあることから
綻んだ頬はしかし、再び引き絞められた。
「……さて、次はラッテだ。帝都の部下から近況は届いたか?」
「ええ、皇帝からの使者が出されたとの情報を得ました。詳細は不明ですが、出された時期からしてドゥルカマーラの件でしょう。その死を嘘と断じ、死を証明するか隠していたドゥルカマーラを出すかを迫って来ると思われます。死体がない以上死の証明はできず、ドゥルカマーラの代役を出したとしても何故嘘をついたのかと糾弾されることとなります」
「ふん、やはり手が早いな。そして浅はかなことだ。シュピネ、都市参事会の方はどうだ?」
「まだ話は進めておりませんが、恋人は見つけましたわ」
「なら予定より早いが、先手を打つしかあるまい。床屋のハンスに、領主を陥れるための政治にかかわる嘘をついたと濡れ衣を着せて、その疑いを神明裁判で晴らす。オイレは刑吏のピットに連絡して偽装用の肉の手配をし、ハンスに詳細を伝えておけ。俺は裁判の準備を進める。使者から言付けを受け取り次第ハンスを告発する」
「かしこまりました」
「教会の威光を笠に着て、キリスト教の守護者たることを権力の根拠としている皇帝のことだ。神明裁判の結果は受け入れざるをえんはずだが……今回の陰謀をはねのければそれはそれで恨みを増大させることになる。となると、次に考えられるのはイェーガー方伯領に接する教会領の主教を、皇帝の息のかかった人間に総取り換えすることだ。これは避けようがない。それから、管轄が曖昧な土地を教会領だと主張しても来るだろうな」
ヨハン様は険しい顔で皇帝の次の動きについて予想を立てられた。見事なまでに教会を利用しきった方策。そこからは信仰心のかけらも感じられない。
「それらには、どう対応なさるのですか?」
「対応のしようがないな。教会の権限の増大については、今更歯止めがきかんことだ。それに、領地外のことに関してはイェーガーも手が出せん。逆に言えば、領地に手を出してくるのを待つしか反撃の機会はなかろうよ」
「領地に? そんなことが可能なのですか?」
「法さえ整備すれば何とでもなるのさ。今、帝国には皇帝と諸侯の権限を定義する明確な法がない。それを皇帝の都合の良いように捻じ曲げたうえで明確化していく。さすれば、いつしか皇帝を絶対的な君主としていただく国が完成するという寸法だ。ゆくゆく、その過程をなんとか妨害することが、イェーガーにできることだ。今は、神明裁判の件以上に動くことは出来んな。なにしろ相手は帝位をも簒奪した切れ者だ。絶対的な切り札などあるわけもないのだ。向こうから放たれる矢を、ひとつひとつ着実に潰していくしか、抵抗の手立てなどありはせんよ」
「さようでございますか……」
「まぁ、まずは目の前にあることから片づけていこうではないか。心細く思えるかもしれんが、まずは守りを固めることを考えるのだ。攻撃することに気を取られて足元をすくわれてはたまらんからな」
「はい」
「さて、ほかに報告がなければ今日は以上だ。せっかく塔に来たからには久しぶりに医学の話がしたい。オイレは寄っていくか?」
「もちろんでございます」
「そうか、では残れ。ラッテ、ケーター、シュピネ、ネーベル、下がってよいぞ」
「はっ」
ラッテさんたちが出ていくと、ヨハン様は少し姿勢を崩して、息をつかれた。
「それで、勉強会の具体的な内容は何だったんだ? 初回はやはり、ジブリールの得意な骨のことあたりだろうか」
「さすがヨハン様、おっしゃる通りです。主に腕の骨についてでした。骨の構造が二本の棒を組み合わせた形になっていること、実は私たちは手首や肘を回すのではなく捻って動かしているのだということを教えていただきました」
「ああ、以前、オイレと一緒に墓場から掘り出した骨を組み立てたことがあったが、確かに二本の棒だったな。印象に残っている。言われてみれば、こうして動かしてみると、手首を回すつもりで動かしているのは肘下全体だということがよくわかる」
ヨハン様は手首をくるくるとながら、楽しそうに微笑まれる。
「あの……医学のお話をするなら、ジブリールさんを呼んでまいりますが……」
「ん? ……ああ、そろそろ良いか」
私の当たり前のような申し出に対して返ってきたのは、しかし、承諾の言葉ではなかった。




