神の賜物
ジブリールさんが塔にやってきて思ったことは、やはりこの人は異邦人であるということだった。
まず、一人でいるときも、頻繫に何かを口ずさみ続けている。私は最初はそれを、歌を歌っているのだと思った。しかし、彼に何の歌なのかと問うと、歌ではなく祈りの言葉であるのだという。彼の信じるイスラームという信仰は、一日5回、祈りを捧げる。また、ことあるごとに祈りの言葉を唱える。サラセンでは挨拶の言葉さえも祈りであるのだそうだ。不思議がる私を見て、彼は笑って許容した。祈りの言葉は神が与えたもうたもの。それが神聖なるものである証として、与えられた言葉は美しい。美しさという点で、祈りの言葉は音楽に等しい……つまり、私の耳に歌として聞こえたということは、国も信じる預言者も異なれど、美しさが失われなかったということだと言って喜んだ。部屋の中で天を仰ぎ、やはり不思議な言葉をつぶやく彼に、何と言ったのかと尋ねると「神よ、やはりこの地もあなたのものでした」という答えが返ってきた。共通点を見出す彼と裏腹に、私は感覚の違いの方を意識させられてしまった。
イスラームとキリスト教で、信じる神は同じものなのだとジブリールさんは説明してくれた。イエス様のことも、偉大な予言者の一人として信じているのだという。だからこそキリスト教徒にも寛容なのだと。理屈ではそうなのかもしれないが、それらの言葉の奥には、形容しきれない感覚の違いがあるように思えてしまって、曖昧にうなずくことしかできなかった。
ベルンハルト様は、異教徒を討ちに聖地に赴き、命を落とされた。その事実が見えない壁となって、異教を理解することを拒んでいるのかもしれない。
それでも……次に思ったことは、どうやらこの人は異教徒の中でも相当特殊な存在らしいということだ。
ジブリールさんは、決して自分を卑下することがない。自分は最高の頭脳を持っていると、悪びれもせず肯定する。
彼にとって謙虚であることは美徳ではない。それは、才能とは神の賜物であり、それを最大限に活用することが才能を与えられたものの使命であると信じているからだ。
どれだけ自由に動くことができるかが、学問と関わる上では大切なことなのだとジブリールさんは言う。彼にとって信仰とは人生の指針であって、行動を制限するためのものではない。既存の枠組みの中に囚われていては、新しい試みなどできるはずもなく、新しい試みがなければ、学問は発展しない。
「Το να μελετάς είναι να πολεμάς.(学ぶことは戦うことです)」
神は怠惰を嫌う。現状を良しとせず、常に戦い続けることを神は望まれる。挑戦こそは最大の信仰の証であり、総ての学びとは神の偉大さを理解し、より大きな信仰を築くためにある。それがジブリールさんの根底にある、確固たる信念だ。そう信じて、今まであらゆる学問を修め積み上げてきた。
しかし、その道は過酷なものだった。ジブリールさんと同じような考え方をする者は、サラセンでも多くはなかったのだ。彼の周囲は、常に二種類の人間が囲っていたのだという。すなわち、ひとつは彼を妬み、陥れようとする者たち。もうひとつは、彼を利用し、のし上がろうとする者たち。彼に与えられた賜物の価値を理解して神を賛美し、その道の助けとなろうとする者など、100人に一人いれば良い方だった。
彼は、それも神の与えた試練として受け入れた。権謀術数渦巻く世界を、放たれる無数の矢を避けながら懸命に進むことも、自分に望まれた「戦うこと」に含まれているのだと考えた。
とはいえ、やはり無用な戦いは避けたいという気持ちは拭い去れないのだという。
「Ήρθα εδώ γιατί είναι επίσης ένας άνθρωπος που αγαπά να σπουδάσει(私がここに来たのは、あの方もまた、学ぶことを愛する方だったからです)」
異教徒の自分に、目を輝かせてたくさんの高度な質問をしてきたあの少年なら、自分の頭脳を政治に利用するのではなく、学問だけに身を置かせてくれるのではないかと思ったそうだ。
実際、それは当たっている。ヨハン様は、最大の敬意をもってジブリールさんを扱い、謀略にはその頭脳を頼ろうとなさらない。
そう考えると、以前ジブリールさんが、フリーゲさんの傷を見てヨハン様に忠告をしたことは、奇跡的な出来事に思えた。自分を利用しようとしない方だからこそ、かえってお役に立ちたいという気持ちも生まれるのかもしれない。不思議な関係性だが、私には互いを思いあうその関係性が、とても美しいものに思えた。




