共に学ぶ
ジブリールさんの引っ越しは意外なほど簡単だった。とにかく、荷物が少ない。学者たるもの、たくさんの本を持ってきているのかと思えば、そんなことはなかった。要するに、今まで読んだものはすべて頭に入っているということだ。たゆまぬ努力がこの人を育ててきたことを知ってはいるが、私は人に与えられる才能の不平等さというものを感じざるを得なかった。
ジブリールさんは、ヨハン様のことを気にしている様子はなかった。自分は書物も資料も自由に使えるようになって嬉しい、ヨハン様も幽閉が解けて自由の身になって嬉しい、何を悲しむことがあるのかと、あっけらかんとしている。そして、ヨハン様にお部屋をいただいたご恩を返すためには、研究で成果を上げてこの国の医療の発展に貢献するしかないと意気込んでいる。
「Η σκέψη για το φάρμακο για τους απλούς ανθρώπους είναι πιο σημαντική από ό, τι για τους έξυπνους ανθρώπους.(教養ある層よりも、一般の人々のための医術を考えることが重要だと思います)」
実は、帝国の医療の遅れはサラセンにも伝わっていたらしい。サラセンにいたころ、「西から来た人々は、実際に繰り返し試して確かな成果を積み重ねたとは到底思えないような、思い込みによる治療を施し、傷や病状を悪化させている」という話がしばしば耳に入っていたのだそうだ。ジブリールさんは、ヨハン様が医学を修めようとしているのは、単純な学術的興味ではなく、ご自分が守るべき民のことを思ってのことだと考えていた。だからこそ、医学の向上以上に、民間の医術の発展が必要であり、紙の上の学問ではなく実践的なものに落とし込まないといけない……当たり前のようにそう語った。
「Ο κ. Τζον θα είναι κυβερνήτης. Πρέπει να το καταλάβουμε αυτό και να τον υποστηρίξουμε με έρευνα.(ヨハン様は将来統治者となられるお方です。私たちはそのことを理解したうえで、研究でお支えしなくてはいけません)」
その言葉に、私はどう返答するべきか悩んだ。確かに一面ではその通りだ。ヨハン様はいつもご自分の医学とはおっしゃらない。「この国の医術」という言葉を好んで使われる。狭い塔の中にありながら、あの方の眼には、いつも目の前の景色ではなく、イェーガー方伯領の民、ひいては帝国の民の姿が映っている。
しかし、それはヨハン様が目的を定め、ご自身を律するために意識していらっしゃることでもある。きっかけは、姉君の死という極めて個人的なご経験だった。そして、ご自身を「知識に取りつかれた獣」と表現されたこともあった。医学を語られるとき、解剖を行うとき、新しい知識を得たとき……淡く美しいオリーブの瞳は、少年のように無邪気に、楽しそうに輝く。あの方は、真っ直ぐに学問を愛していらっしゃるのだ。
そもそも、統治者としての義務故に、帝国の行く末を憂いて医術の向上を望まれるなら、ご自身が研究に身を置かれる必要はない。各国から優秀な学者を集めて、出資だけなされば良いことだ。そうではなく、お忙しい合間を縫って、睡眠を削ってまで打ち込まれている時点で……
「Δεν θέλω ο κ. John να φύγει από τη μελέτη.(私はヨハン様に学問から離れてほしくありません)」
ふと本音が零れた。医学はヨハン様に必要なものだ。私はヨハン様のために医学を志す。ヨハン様のためになら、いくらでもこの身を学問に捧げたいと思っている。しかし、どんなにヨハン様の希望があろうとも、そこにヨハン様のお姿がなければむなしく感じてしまう。
ジブリールさんは私の言葉に、驚いたように目を見張り、首を傾げた。
「Μπορούμε να προετοιμάσουμε το μέρος για να επιστρέψει ο κ. Τζον, σωστά;(ヨハン様が帰ってこられる場所を、私たちが用意しておけばよいでしょう?)」
彼が発したのは、純粋な疑問。そうか、ジブリールさんは、ヨハン様の不自由など承知の上で、ヨハン様ならそれでも時間を作って医学を修められるだろうと信じていたのか。聡明な彼の子猫のような表情に、心がほぐれるのを感じた。私の最も敬愛するお方の人生を大きく変えた目の前の人物は、接した時間は少なくとも、私以上に深くヨハン様を理解し、信頼していた。私たちは、あくまでヨハン様と共に学ぶのだ。この人となら、私も困難を乗り越え、新たな道を切り開いていくことができそうだ。




