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一歩

 例によって、ネーベルの治療には「愛の妙薬」が用いられることとなった。縫わなければいけないような傷はなかったものの、脱臼していた両足は、戻そうとしたがうまくいかなかった。ジブリールさんに聞いたところ、長く放置されたために、身体が間違った骨の位置に適応してしまったらしい。顔が血色を取り戻したとしても、ふらふらとした幽霊のような歩き方は、もう治ることはなさそうだ。ラッテさんの部下になるということにはなったが、ヨハン様はこの信用ならない隠密をどのようにお使いになるおつもりなのだろうか。


 気がかりなことはもう一つある。「ドゥルカマーラ博士」のことだ。ロベルト修道士様が亡くなられた今、修道士様を殺した張本人である皇帝に、ドゥルカマーラは旅の途中で賊に襲われて殺された旨、使いを出さなければならない。ひとまずは使いを送って様子を見るしかないが、あの皇帝が素直に引くとも思えなかった。また、ドゥルカマーラの死が公になるということは、せっかく民間に学派までできて、正しい医術が広まる準備ができてきていたというのに、今後ヨハン様がご著書を発表されるための隠れ蓑がなくなってしまったということでもある。



「まぁ、それはそんなに気にすることでもあるまい。偽名などいくらでも用意できるからな。それに、前から言っている通り、俺は医学の啓蒙を自分が行うことにはこだわっておらん。今の俺達にはジブリールという心強い味方がいるではないか。その著書をラテン語に翻訳してしかるべき名前で出すだけでも、十二分な成果は得られよう」



 心配を口に出した私に対するヨハン様のご返答は、かえって夢が一歩遠ざかってしまったことを如実に示しているようで、私は少し憂鬱になった。ヨハン様は確かに政治的な駆け引きがお得意だ。しかし私は、叶うことなら政治に頭を悩ませるよりも、医学にお時間を割いていただきたい。謀略を語られるときの暗く鋭い瞳ではなく、医学を語られるときの朗らかな笑顔こそが、お優しいヨハン様にはふさわしいのだから。


 思い悩む私をよそに、ヨハン様はどんどんお忙しくなってしまわれる。何しろ、政治の局面は目まぐるしく変わるのだ。大切な仲間を失おうが、悼む時間をとってはくれないし、新たに奇妙な仲間が加わろうが、なじむまで待ってはくれない。


 ならば、ヨハン様がいつでも医学の道へと戻ってこられるように、私が代わりに学びを深めていこう。そして、今までヨハン様が教えてくださったこと、考えてくださったことを、少しでもまとまった形にしていこう。そう思って、私はペンを手に取ることにした。


 思えば、私がヨハン様付きのメイドになったあの日から、3年近い月日が経っている。途中、ベルンハルト様のお付きとなった時期もあったが、それを差し引いても2年半以上の間、一体どれだけのことをヨハン様から学ばせていただいたことか。解剖という存在も知らず、ギリシア語もほとんど読めなかった私が、薬を挽き、傷を縫い、本を書こうと思い立つまでになっている。無論、未だどれも拙いものだが、一介のメイドの人生がこれほどまでに様変わりすることなど、普通あり得ることではない。


 そうして、医学書執筆のまねごとをしながらしばらく過ごしていたある日、扉越しに掛けられた声は、懐かしさすら覚えるものだった。



「ヘカテーちゃん! 久しぶりね、元気にしてた?」


「シュピネさん! 本当にお久しぶりです! ビーレハウゼンにいると聞いていましたが、帰ってこられたんですね」


「うん、今朝帰ってきたばかりなの。それにしても、うふふ、また一段ときれいになったわね」



 そう言って当たり前のように私を抱きしめるシュピネさんからは、相変わらず甘くて良い匂いがした。この香りは、コストマリーとラベンダーだろうか。無意識に考えてしまうあたり、私も少しは「賢い女」に近づけたのかもしれない。



「あら、それはなぁに? 日記?」


「いえ、実は、ヨハン様に教えていただいた医学の知識を、少しでもまとめておこうと思いまして……」


「つまり、本を書いてるのね!? それはすごい、本当にすごいわ!」



 シュピネさんは目を輝かせ、私の手を握り締めて、踊るように振り回した。



「そんなに大したことでは……」


「いいえ、大したことよ。私なんか、まともに読み書きできるようになるまでにどれくらいかかったか……報告書以外のものを書こうと思ったことなんて一度もないもの」


「それは……ありがとうございます。ところで、今日は何かのご報告ですか?」


「簡単な近況報告はあるけど、あたしを呼んだのはヨハン様よ。さ、一緒に行きましょ?」



 シュピネさんは私の手を握ったまま、さぁ、と扉の外へと促した。きらめく金髪に囲まれた華やかな笑顔。きっと悪い話ではないのだろう。私は久しぶりに深く息をして、足を踏み出した。

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