胸騒ぎ
それからさらに一月と少しが経った頃、祖父が撒いていた種が実を結んだ。夫人同士のささやかな交流からはじまったティッセン宮中伯との関わり方の変化は、ついにご領主様同士の交流へと発展したらしい。計算づくであっても、手に手を取り合って進んでいくことに違いはない。かつて皇党派内を二分していたイェーガーのお家とティッセンのお家は、今や互いに盟友と呼び合うような仲となったのだ。
「父上がティッセン宮中伯の城に招かれた。宮中伯側からの動きだ。やはりあの紙切れにはそれだけの効力があったのだな。お前の祖父の影響力は、もとがただの遍歴商人だったとは到底思えん。それを見出した前宮中伯の眼も凄まじいものだが……一体どこで釣り上げたのやら」
ヨハン様は鋭い目つきのまま、口角だけを上げて微笑まれる。
「まぁ、今はその経緯を探っている場合でもないからな。どのみち、間接的に味方につけられるとなれば頼もしい。宮中伯とは、とりあえず直近、イタリア政策について手を組むことはほぼ確定している」
「イタリアについては、まだ賛成とも反対ともつかないお立場ではなかったのですか?」
「それが、どうもきな臭くなってきてな……このまま手をこまねいていると、イタリアは皇帝の金貨袋となりそうだ」
「どういうことでしょう?」
イタリアを帝国が接収しようと動くのは、別に今に始まったことではない。貿易の中心地であり、巨大な経済を回しているあの地は、帝国に限らず、歴史上あらゆる国が手中に修めたいと願ってきた。しかし、ヨハン様の口から出てきた言葉は皇帝の金貨袋。帝国ではなくエーベルハルト1世の持ち物のようなおっしゃり方だ。
そんな私の疑問に、ヨハン様はこともなげにお答えになる。
「便宜上帝国の法に従ってこそいるが、現状、イタリアは別に帝国の一部というわけではないからな。ベネヴェントやスポレート、シチリア、アマルフィ……諸都市が係争しながら国としての主権を、そしてその統治者は支配の正当性を主張している。要するに帝国が置こうとしている小王は、帝国諸侯とは性格が違う。皇帝個人の代理人にもなりかねんということだ」
「帝国としてイタリアを接収するのではなく、皇帝が個人的に監視して、その税収を懐にいれるということですか?」
「そうならんよう、国として足並みを揃えて動く必要があるのさ」
まるで軽いことのようにお話しされるが、国を越えて社会の行く末にかかわる重要な選択。
「しかし……国として動くとなると、イタリアに出兵して戦争を起こすことになるのでしょうか? 異教徒との戦争のさなかにもかかかわらず……」
「よく気付いたな。おそらくそこが宮廷でも争点となる。戦争のさなかにもかかかわらず、ではない。さなかだからこそ、兵力を割きたくない諸侯の心理をついて巨大な財源を確保しようとしているのさ、あの皇帝は」
無茶苦茶な話にしか思えなかったが、実際、前皇帝の在位中に選帝侯会議を無視して帝位に就くという無茶苦茶をやってのけた人物だ。しかも、リッチュル辺境伯領はイタリア半島のすぐ北にある地。情勢も把握しているだろうし、あらゆる手札を揃えたうえで動こうとしていると考えざるを得ない。
「悩みの種ならまだあるぞ」
考え込む私を見やり、ヨハン様は一枚の手紙を私に手渡された。そこに書かれていたのは……
「ドゥルカマーラという医師を宮廷へ?」
急な話題の転換に戸惑っていると、ヨハン様はふん、と鼻を鳴らされる。
「ああ。やはり判断が早い。フリーゲの監視者が消えてから一月半、完治の報告を受けてすぐにこれを出したということだな」
「一月半……まさか、ネーベルは皇帝の!?」
「そのまさかさ。帝国の北端から南端まで、ご苦労なことだ。オイレの尋問でもいくらか情報が入ったが……監視者は暗号名を雨、喧嘩相手は稲妻というらしい。20年も潜伏していたのはさすがにマルタだけのようだが、レーレハウゼンだけでなく、イェーガー方伯領にはリッチュルの隠密がうようよしている」
大量の隠密がこの地に投入されているという事実。しかし、それは以前ヨハン様もその前提で動かれているとおっしゃっていたことだ。故に、私は隠密のお話よりも、手紙の内容の方を気がかりに思った。
「あの……ドゥルカマーラを寄越すように要求されたということは、ロベルト修道士様を宮廷に送られるのですか?」
「他に策はなかろう、元々そのための招聘だ。ロベルト修道士なら簡単に陥れられることもあるまいよ」
「私も同行いたしますか? フリーゲさんの傷でドゥルカマーラが実在するかを確認したとするなら、傷を縫うことを要求されるはずですし」
「いや、縫って治したということまでは伝わっていないはずだ。治療法を知らなければ、一見してわかるものでもないからな。それに、むしろ縫えない方が良い。突っつかれる隙を作らないためにも、あまり普通と違うことはしたくないのさ。ドゥルカマーラ学派を名乗っている者の中から、一番受け答えの上手い床屋を連れて行かせる」
「さようでございますか……」
一緒に行ったからといってどうなるものでもないが、私は何の役にも立てない自分のことを歯がゆく思った。何故か、ロベルト修道士様が実質おひとりで皇帝と対峙するということに、どうにも形容しがたい胸騒ぎを覚えたのだ。




