余話:美しい女
またもや遅くなりまして申し訳ありません!
ネーベル視点です。拷問描写があります。苦手な方はご注意ください。
調理場の床から突き落とされた闇の底。今日は床に転がされてばかりだ。暗殺も請け負う役柄上、腕には覚えのある方だったが、あの男は意外なほど強かった。そもそも、俺がマルタの家を見張っている間、いつからどこに隠れていやがった? 何の気配もなく、ダガーを投げた瞬間に飛び込んでくるとは恐れ入る。流石はイェーガー方伯、その隠密の腕は伊達ではない。
本当はこういう状況での対処法としては、眠ってしまうのが一番良い。だが、それはそう簡単なことではなかった。完全な暗闇によって鋭敏になった、視覚以外の感覚すべてを、あらゆる刺激が不定期に襲ってくる。立ち込める腐臭、虫の羽音、そこかしこで音を立てる生き物の気配。そして、放り込まれる前に中途半端に縄を緩められたのは何かと思えば、痺れによって触覚を鈍らせないための工夫だったようだ。しかも、俺が身に着けているのは下着だけ。頭をぼうっとさせようにも、ふいに何かが這いずり回ったり噛みついたりするものだからすぐに邪魔される。蛇だか鼠だか知らないが、常に身体のどこかしらかが痒みか痛みに苛まれていると、このままじわじわと齧られて緩やかに喰い殺されるのではないかと半ば本気で思った。
しかし、永遠にも感じられた地獄のような時間は、永遠ではなかった。天井の戸が開き、ほのかな光が差し込む。
「やぁ。調子はどう?」
明かりと共に降ってきたのは妙にのんびりとした声。目が慣れてくるにつれ浮かび上がってきた人物は、昨日の男だった。変装していたようで、茶髪から赤毛になっている。奴は梯子を下ろすと、鼻歌交じりにやってきて俺の縄を切った。しかし、それは解放を意味するものではない。縄を切ったダガーを首過ぎに充てられながら、俺は無言で梯子を上り、階段を上がった。
最上階に着くと、突然殴り飛ばされる。つんのめるようにして横たわったのは調理台の上だった。
「なんだ、そこまで荒れてないね。たった一晩とはいえ、駄犬の時はもっと真っ赤っ赤だったんだけどなぁ。君は肌が強いのかな?」
赤毛が不思議そうに台の上の俺を眺める。そうか。方伯の息子らしき男は明日話を聞くように命じていたし、マルタの家で会った女もこれから拷問が待ち受けるといっていた。まぁいい、いずれこうなることはわかりきっていた。俺は目を動かして、これから自分の身体をを壊していく道具を探す。刃物か? 笞か? それとも焼けた鉄の類か? 何でもいい、死ぬまで耐えきってやろう。
「何を探してるの? ……ああ、何されるのか気になるのか。確かにこの場所は、皮を剥いだりはらわたを引き出したりするのにも使うけど、君に刃物は使わないよ」
さもおかしそうに笑いながら、赤毛は漏斗のようなものを取り出した。なるほど、水責めか。これは痛みよりも耐え難いかもしれない。
「やり方は任せる、って言ってもらえたからね。ちょっと君で試してみようと思ってさ」
それにしても、どうしてそんなに嬉しそうなんだ。新しい遊びを見つけたガキのような目をしやがる。あの女は、俺がマルタを殺すときに微笑んだのを理解に苦しむといっていたが……結局どこの家の隠密も似たようなものじゃないか。人間とはやはり、自分以外の人間を苦しめるのが好きな生き物だ。
漏斗が喉の奥まで突っ込まれ、ぐりぐりと押し付けられる。身体がそれを拒もうと嘔吐の反応を示すが、当然、喉が焼けるだけで漏斗は動かない。
「じゃ、ちょっと大変だけど我慢してねぇ」
おどけたような声と共に、強制的に流し込まれる大量の水。咳き込むと水が鼻に逆流し、強烈な痛みが眉間を襲った。耳も痛み、蓋が張り付いたようにきん、と遠くなる。自分の呻き声が隣室から聞こえてくるようだ。腹にも大量の水が流れ込み、急激な膨らみに耐えかねて鳩尾の下あたりが痙攣する。苦しい、苦しい、苦しい。何度も死線はかいくぐってきたというのに、ここまで強烈に死を意識するのは久しぶりだ。
……だが、その苦しみは突然終わりを告げた。
漏斗が取り外され、えずき、咳き込みながら必死に呼吸をする。尋問の度に中断して、何度もこれを行うつもりか?
「お疲れ様ぁ。思ったより大変だったみたいだね、ごめんごめん」
笑いながらそう言うと、赤毛は……座った。
「しばらく楽にしてなよ」
「質問は、しないの、か?」
「うん。まだ、ね」
「畜生、拷問が趣味のクソ野郎か」
「ひどいなぁ。むしろ逆だよ。僕は人の笑顔が好きなんだ。それに、隠密の口を割らせるのには、拷問は合理的な方法じゃないと思うんだよねぇ」
「いかれてんの、か? 言ってること、矛盾してる、ぞ?」
息も絶え絶えに答える俺を、奴は鼻で笑い、何も言わずに本を読み始めた。わけがわからないが、発狂しないためにはここで休んでおいた方が良いだろう。
……だが、半刻ほどして、俺はさっきの「まだ」の意味を理解した。鼓動が異常に早くなり、呼吸が荒くなる。手足が震え、強烈な眩暈が襲ってきた。
「そろそろ効いてきたみたいだねぇ」
「てめ、何しやがった!?」
「これだよ」
手袋をした赤毛の手には、木の根のようなものが握られていた。
「イタリアの方では、美しい女って呼ぶんだって。意識に作用する薬草さ。量が多すぎると死ぬみたいだけど」
記憶が引き出されるように、妙な声が聞こえ、幻影が見え始める。
「混乱している時、人は正直になるからねぇ。じゃあ、質問を始めようか。君の飼い主は誰だい?」




