濃霧
目の前で、ひとつの命が消えた。流れ者には厳しい世の中で、親子ともに仲良くしてくれた近所の優しい女性は、もう私に話しかけることはない。お祭りに参加しても、もうあの豪快な笑い声を聞くことはできない。ついさっきまで元気に喋っていたのに。余りにも急な展開に、頭がついていかず、悲しみも襲ってこなかった。
「させないよ。君には聞きたいことが山ほどあるからね」
後ろでオイレさんの声がして、被せるように呻き声が聞こえた。大方、さっきの男が舌でも噛もうとしたのだろう。私にはそちらを振り返る気持ちにもなれない。頭の中で、気を失っただけなんじゃないか、急いで塔に運べばジブリールさんが助けてくれるんじゃないか……などという甘い希望が渦巻き、それをもう一人の自分が、そんなわけがない、どう見ても死んでいるだろう、と否定する。その繰り返し。
「ヘカテーちゃん」
オイレさんの声が妙に遠くて、返事をするのも億劫だ。
「ヘカテーちゃん。気持ちはわかるけど、騒ぎになる前に、ここはもう出た方が良い」
優しく話しかけてくれている筈なのに、随分と冷たく感じる。
「本当は殺人だと騒ぎたててこの男を捕吏に引き渡すのが一番早いんだけど、彼女が死んでしまった以上、僕たちはこっちから情報を引き出さないといけない。まずは城に戻るよ」
がし、と肩を掴まれて、私はやっとオイレさんの方をぼんやりと眺めた。
「ヨハン様なら、彼女がきちんと弔われるように取り計らってくださる。いいかい、今は時間がないんだ。頭が働かないなら僕の言うとおり動くだけでいいから。ほら、とにかく立って?」
その言葉にはっとした。私に対して失望するのではなく、ただただ懇願するような琥珀色の瞳。そうだ、ヨハン様もオイレさんも、私を信頼してこの仕事を任せたのだ。マルタさんからはもう情報は得られないが、床に転がっている男には同じだけの価値がある。ここで私が足枷になって、彼を都市参事会に引き渡したら、きっと逆恨みか何かによる事件として片づけられてしまう。しかし、城に持ち帰れば大いなる戦果だ。
「すみません、あまりのことに茫然としていました。その人を連れてお城へ帰りましょう」
「うん。じゃあ、僕は荷車を持ってくる。君はマルタさんには触らずに、その男を見張ってて」
「わかりました」
そうして部屋に残された私は、彼を眺める。私がぼうっとしている間に、オイレさんが縛り直したのだろう。両手両足をぎちぎちに固められ、舌を押さえつけるようにまかれた縄のせいで僅かに口が開き、だらりと涎を垂らしている。
マルタさんの命がこの人によって奪われたのだ、と思ったとき、鳩尾から湧きあがるような怒りを感じ……同時に、急激に頭の中が冷えていくのを感じた。
「霧、と呼ばれていましたね。それがあなたの暗号名ですか? あなたの組織では、隠密を天気に纏わる名前で呼ぶのでしょうか」
当然、返事はない。灰がかった薄青の瞳は、なるほど濃霧を思わせる。マルタさんを罵倒したのを最後に無言を貫き、部屋は静かなものだ。しかしその無言が諦めによるものではなく、声を出す意味がないという合理的判断によるものだということは、凶暴さを失っていない眼光が物語っていた。オイレさんは大道芸人なので、一般人よりは遥かに体力はあるものの、ケーターさんのような武力担当というわけではない。そのオイレさんに負けたということは、この人はきっと諜報側の要員。性質が凶暴であっても、頭は切れるはずだ。
「武闘派ではなさそうですが、暗殺を請け負う役目ではあるのでしょうね。殺しになれていそうですから。とはいえ、仲間を手に掛けることに躊躇がないどころか、笑みさえ浮かべていたのは理解に苦しみます。これはあなたの性格ですか、それとも組織の性格ですか?」
私の問いに、目が僅かに細められた。
「殺しに慣れていくうちに、それを楽しむよう心が歪んでしまったのでしょうか。もしそうなら、きっと、元はひどく繊細な方だったのでしょうね。私の知っている、殺しと拷問を生業としていた人は、他人に優しくする余裕も、不正に歯向かう度胸も持っていました。あなたにはどちらもなさそうです」
少し怒りを煽ってみると、きつくこちらを睨み付ける両目。図星というのもあるだろうが、簡単に怒りにかられる人物なら、この部屋がこんなに静かなはずはない。つまり、不愉快さを露わにすることで、自分の性格の荒さを主張している。先ほどの質問の答えは、どうやら後者であるようだ。
「もうすぐ拷問が待ち受けるあなたを、ここで傷めつけようとは思いません。しかし、マルタさんが隠密として情報を流していたとしても、彼女を殺したあなたを私は許さない。亡くなる間際の彼女を侮辱したことは余計にです」
荷車が近づく音がして、家の前で止まった。早くもオイレさんが戻ってきたようだ。
「行きましょう。お城についたら、あなたには最悪の役目を負ってもらうつもりです。私たちの情報源となって、あなたの組織に致命的な打撃を与えるという役目を」




