善き隣人
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ぼんやりとした意識の中、私は扉の外に雑踏の気配を感じた。オイレさんが表の扉を開けたのだろう。窓のないこの部屋は暗闇に包まれているが、行き交う人々の聞き取れない話し声が、この建物が街の中にあることをはっきりと感じさせる。朝が来た。ゆっくりと毛布を持ち上げ、おぼつかない手で壁を探りながら扉にたどり着き、そっと開けた。
「おはよぉ、自分で起きられたね」
オイレさんは廊下に座り、何かを書きつけていた。ヨハン様への報告書だろうか。いや、報告は口頭で済ますことが多いので、何かの準備かもしれない。
「おはようございます。すぐに出ますか?」
「そうだね。朝はみんな忙しいし、まだ頭がぼうっとしているから気付かれにくい。簡単に身支度をしておいで」
その言葉を受けて、私は編んだ髪をまとめて、布で覆い、口元まで隠した。髪の毛を隠して俯き加減に歩いていれば、私だと気付かれることはほぼないだろう。レーレハウゼンは商人の街。朝の店の準備に追われる人々は、すれ違う人の顔などほとんど見てはいないのだから。
オイレさんは先に出て周囲の様子を窺い、すぐに戻ってきて手招きをする。そして、ごめんね、と小声で謝ってから、私の手を取った。流石に驚いて少し肩を震わせてしまったが、よく考えたら当然のことだ。狭い塔の中では時間の感覚が狂うのか、あまり自覚がなかったものの、私はもう立派な大人だ。そして、布を被った敬虔な女と共に歩く男、それは夫以外の何者でもない。このくらいの年の差の夫婦は珍しくもないので、街に自然と溶け込むことができる。少し複雑な思いを抱きながらも、私は黙って手を引かれることにした。
相変わらず賑やかで、色とりの商品に彩られた道。あの店の服が綺麗だとか、そこのパン屋は店主がいい人だとか、何てのことのない会話をぽつりぽつりと交わしながら歩く。しばらく進むと、音楽が聞こえてきた。音の方を見やれば騒がしい人だかりがある。
「わたくしの名はラディスラウス! この世界には誰一人、わたくし以上の歯抜き師はおりませぬ! さぁさぁ、見ていらっしゃい皆様がた、世界一の歯抜きをとくと御覧あれー!」
どうやら、レーレハウゼンにもオイレさんの後釜が生まれたらしい。苦笑して隣を見上げると、オイレさんは微笑みを返すも、目が笑っていなかった。ヨハン様はいずれ歯抜き師としての腕を奮う場を与えるとおっしゃっていたが、できるだけ早い方がよさそうだ。
会話のリズムはオイレさんに任せて、私は頭の中で一生懸命マルタさんに声を掛ける練習をする。知り合いばかりのこの街で声の大きい彼女が、まぁ、ヴィオラちゃんじゃない、なんて叫んだらせっかくの変装も台無しだ。気付かれないように傍まで行って、マルタさんが振り返ったらすぐに静かにするようお願いする。何か訳ありなのだと気づきさえすれば、彼女は協力してくれるはずだ。
「そろそろ店の近くだね。僕はいったん離れるけど、ちゃんと見てるから安心してね」
オイレさんはそう囁くと、いい商品を見つけた、という風にぱっと顔を輝かせて近くの金物屋へ走って行った。私は夫に突然置き去りにされた妻というふりで、しばらくおとなしくその場にとどまったが、オイレさんと店主の話が盛り上がった隙にそっと離れる。ああいう演技は、私にはできない。今回は珍しく情報を取ってくる側に回ったが、自分に隠密は向いていないと当然のことを思った。
道を曲がるとすぐ、マルタさんのお店が見えた。彼女は買い物客とのおしゃべりに夢中だ。あの客が去っていった瞬間を狙って声を掛けよう。
「……いけない、つい長居しちゃった」
「いいのいいの、また来たときは寄って! 別にあたしはあんたと話せれば、何も売れなくなっていいんだからね」
「そんなこと言われたら余計に買いたくなっちゃうよ」
「あらぁ、ばれた? それが狙いよ」
「もうマルタったら! じゃあ、また寄らせてもらうね」
「待ってるよ!」
今だ。女性客を笑顔で見送るその背中に、私はすっと近づいて声を掛けた。
「マルタさん」
振り返った彼女は、私を見て目を見開き、口を開ける。そこから声が漏れる前に、私は、しっ、と人差し指を唇の前に立てた。
「すみません、実はお城を抜け出してきていて、知り合いに見つかりたくないんです」
「びっくりしたよ……真面目なあんたが抜け出すだなんて、何があったんだい?」
「ちょっとマルタさんに伺いたいことがあって……」
私の表情を見て、彼女は心配そうに眉根を寄せると、すぐに頷いて耳打ちをしてきた。
「じゃあ、店じゃどっちにしろ目立つからあとでうちに来な。亭主と店番変わったらすぐに行くよ」
> 布を被った敬虔な女
12~3世紀になると、女性は髪の毛を隠すべきだとの考えが徐々に広がっていきますが、未婚の女性はウィンプルを被らないことも普通だったようです。




