監視者の監視者
治療が終わると、ヨハン様はジブリールさんとフリーゲさんを帰し、オイレさんとケーターさん、そして私の三人だけを残された。それはつまり、医学の時間が終わり、謀略の時間が始まることを意味する。人の痛みや命に関わる医学も難しいものだが、政治はより多くの人の運命を左右するものだ。私は姿勢を正してヨハン様のお言葉を待った。
「オイレ、蠅には何か喰いついたか?」
「は。直接接触した者に怪しい者はなく、監視と思しき者が一人おります。動向を探っている者もおりましたが、監視と同一人物かどうかの確認はまだとれておりません。監視は、ラッテと手分けして素性を探っておりますが、最近やって来たわけではなく、少なくとも1年はレーレハウゼンに留まっている様子。此度の件、相当入念に準備がされているか、あるいは1年以上前からイェーガーのお家を情報収集の対象としていると思われます」
「監視が一人だと? ということは、やはり喧嘩の相手は消えたか」
「はい、行方をくらませております。こちらは滞在期間も短かったようで、フリーゲとの喧嘩のためだけに投入されたものかと思います」
「そうか。では、引き続き監視を監視して泳がせろ」
「かしこまりました」
「しかし気に食わんな、1年以上前、か。まだ帝位簒奪が公になるどころか、リッチュル辺境伯もローマに向かう前だ。その時点でイェーガーに目をつけていて、政局が変わったのちに行動を起こすとは。しかも、その矛先が1年以上在籍したものではなく、新入りと来ている。気持ち悪いことだらけだ」
顰められる柳眉、オリーブの瞳が鋭さを増す。
「オイレ、これだけのことをしておいて、監視がたった一人のはずはあるまい。フリーゲの喧嘩からまだ半月、おそらくこちらから辿られぬよう、意図的に監視を減らしている。1年もいついていれば、一般人との交流もあろう。隠密以外が手助けをしている可能性を考慮して、捜査対象の範囲を広げろ」
「かしこまりました」
「どの家の者だったにしろ、俺は今回のことがフリーゲを傷つけることを目的としていたとは思わん。第二第三の矢が飛んでくるはずだ。フリーゲを起点に上の隠密を探る気か、あるいはイェーガーを疑心暗鬼にさせ、孤立させるのが目的か」
そのお言葉に、私は少し胸がざわつく思いがした。1年前を思い返してみる。それはオイレさんが捕縛されたり、ラッテさんが独断でローマに向かったりしていた頃だ。
「ヨハン様、恐れながら……フリーゲさんを傷つけたり、監視したりしている者たちは、本当にどこか貴族のお家の者たちなのでしょうか?」
ヨハン様の両目が僅かに見開かれる。
「ヘカテー、何が言いたい?」
「1年前、教会周りの騒動が多かった頃です。聖堂参事会同盟の動きもありました。あまり考えたくはありませんが、イェーガーのお家を狙うのは、他のお家だけに限らないのではないかと思いまして……」
「……なるほどな。確かにその線も考慮したほうがよさそうだ。」
オイレさんの捕縛騒動の時には、半分教会に喧嘩を売るような形にもなってしまっていた。ラッテさんが参事会の動きに異変を感じてローマに向かったのも、その後のことだ。
「教会側とティッセンが繋がっていたとも考えられるな。それならドゥルカマーラの存在を知りえるし、母上に医師の紹介を頼む流れも一応納得できる。とはいえ、今になって行動を起こす理由が見えてこないのが難点だ……ふん、まだ思惑を読み取るには情報が足らんか」
「失礼いたしました、出過ぎたことを申しました」
「いや、危うく見落とす着眼点だった。今後も気づいたことがあれば発言しろ。そのためにお前を同席させている」
そのご表情は相変わらず厳しいままだが、理性的で温かいお言葉に少しうれしくなる。
「そういえば、ロベルト修道士様は参事会同盟の時にこき使われたとおっしゃっていましたね。修道士様からお話しを聞くと、何か見えてくるかもしれません」
「そうだな。ちょうど2日後、ジブリールの教化の時間を取ってある。その時にでも聞いてみるとしよう」
私は思わぬご返答に息を呑む。ジブリールさんの教化? 改宗をせまるということだろうか?
「ああ、そんなに心配するな。ここも貴族の面倒くさい所でな。異教徒が異教徒でい続けることを認めたまま、城に置き続けるのは難しいのさ。正直俺は彼がキリスト教に改宗するとは思わん。あれだけの医学を修めたのが、預言者の医学という信条によるものだと考えると、イスラームの信仰は彼のあるべき姿そのものだからな。そういうわけで、時間の無駄にはなるが、形式上は説教をしてもらわんといかんのさ」
常識からはやや逸脱した信仰をお持ちながらも、あくまで敬虔なお二人の間で、どのような会話がかわされるのか……不安に思いつつも、興味を抑えられない私であった。




