表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
205/340

二人の間には

「さて、オイレの薬が役立つということは十分わかったが……脂を使わないということは、サラセンでは血止めに何を用いるのだ?」



 ヨハン様のおっしゃることももっともだった。ジブリールさんの医術は帝国の医療のはるか先を行く。傷を縫い留める技術まで持っていながら、血止めに薬を用いないとは思えなかった。


 そして、私たちの疑問に、ジブリールさんは驚きの答えを返した。



「Χρησιμοποιούμε πηλό.(粘土です)」



 それも、サモス島の粘土が薬になるのだそうだ。同じ粘土でも、どこでとれるかで効用は異なり、赤味の強く芳香のあるアルメニアの粘土は、出血ではなく骨折の治療に用いる。ジブリールさんの出身国で取れる粘土は、白色で風味がよく、なんと服用して胃腸の調子を整えるそうだ。


 外傷に用いるサモス島の粘土は、内臓の潰瘍にも用いるのだという。身体の内側も外側も、傷には変わりない。他にも出血に効果のあるものとして、真珠を粉にしたものや塩などがあるが、真珠は高価すぎ、塩はひどく痛むので、サラセンの医師は粘土を用いることが多いと語った。


 いずれにしても、粉末状のものが用いられる傾向にあるようだ。治療箇所に留め置くために、脂を用いるという発想は、サラセンにはあまりないのかもしれない。


 しかし、ジブリールさんはこれらのものを、血を止めるためというよりは、傷口から毒が入ることを防ぐためのものだと解釈していた。わざわざ固めようとしなくても、そもそも血には放っておけば固まる性質がある。薬を用いた方が予後が良いのは、傷口が膿まないからではないかとのことだった。


 傷が膿む原因は、自然界にある毒に触れること、そして矢傷の話に戻るが、外傷の治療でもっとも重要なのは体内に毒を入れないことだ。そのためには、できる限り清潔を保つことと、毒に対抗する薬を用いることが必要だという。



「清潔さが傷の治りに重要だというのは初めて聞きましたが、感覚としてとても納得はできます」



 その話に共感を示したのは、ケーターさんだった。言われてみれば、足の傷が最も膿んで悪くなりやすいが、それは泥にまみれるからではないか。傭兵は汚い場所を走り回るのには慣れているものの、そうした所では病に倒れる者も多い。また、騎士は身だしなみに気を使い、風呂にもよく入るが、それは単なる礼儀の問題ではなく、清潔に保つことが健康管理に繋がるという先人たちの知恵なのかもしれないと。


 ジブリールさんはケーターさんの話に大きく頷き、泥や沼地の水、腐った藁の中など、汚いところには悪いものがあるのだと答えた。入浴はこれらから身を護る良い方法であり、傷の悪化だけでなく病をも遠ざける。同様に、衣服や部屋を良い香りに保つことも効果的で、サラセンの医師は皆、近くにいることがすぐにわかるほど香りを焚きしめているのだそうだ。


 ジブリールさんは改めてフリーゲさんに、今後も傷をワインで拭うことを忘れないようにと注意した。肉はくっつき、糸を抜けるほど状態は良くなったとはいえ、まだ油断してはいけない。あなたは体つきからして、戦いを生業とするひとなのだろうが、我慢強さと毒に対する抵抗力は関係がない。自分の身体の強さを過信しないようにと念押ししていた。



「Μπορείτε να πείτε το επάγγελμα κοιτάζοντας μόνο το σχήμα του σώματος;(体つきを見ただけで職業がわかるのですか?)」


「Ναί. Πράγματι,κοίταξα όχι μόνο το σχήμα του σώματος.(ええ、まぁ、体つきだけを見ていたわけではありませんが)」



 ジブリールさんは説明する。腕や首の太さは、生活の中で得たものではなく、意図的に鍛えられたものと思われた。筋肉のつき方は均一なので、鍛冶屋のような職人ではなく、全身の運動を行う職。大工や漁師の可能性もあるが、面構えからして戦闘職だろう。ヨハン様に跪き礼を示す所を見るに、ヨハン様の近くに仕える者のはずだが、服装は明らかには私服で、正規の兵のように制服が貸与されている訳ではないと見える。となると、秘密裏に雇われている護衛だと考えた……とのことだった。


 そして、少し声を低くしてさらに付け加えた。初めて見たときのこの傷は、切り口が真っ直ぐで、驚くほど深かった。一般人がカッとなったくらいでつけられる傷ではないし、使われたのも適当な手近な刃物とは思えない。傷ついたのが右腕であることからして、致命傷を負わせる勢いの攻撃を、彼は反射的に腕でかばったのだろうと。



「ははは! さすがはジブリール、鋭い観察眼だ。特に隠していたつもりもないが、何でもお見通しだな!」



 ヨハン様が、愉快そうに笑い声をあげられる。ジブリールさんは、少し困ったような顔でその様子を見つめていた。



「Είμαι απλά λόγιος. Σε παρακαλώ, μην με εμπλέκεις σε πολιτικά ζητήματα, αν μπορείς.(私はただの学者です。あまり政治的なことには巻き込まないでくださいね)」


「Μην φοβάσαι. Καταλαβαίνω.(心配するな、わかっているとも)」



 この頭脳を権力のために使いたいと願う者はいくらでもいるだろう。しかし、それをしないのがヨハン様のジブリールさんに対する敬意であり、そういいつつも助言するのがジブリールさんのヨハン様に対する敬意なのだ。このお二人の間柄を、私はとても好ましく思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ