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紐か壁か

 オイレさんは少し仰々しいくらいに恭しく、巾着袋から小さな壺を取り出し、机の上に乗せた。歯抜きのお仕事からは離れているはずだが、油の入っているはずの壺が綺麗に光っているところを見ると、今日のためにわざわざ調合してきたのだろう。



「アグリモニーとヤネバンダイソウをすりつぶしたものです。それだけではすぐ傷から取れてしまうので、豚の脂に混ぜ込んで煮詰めております。歯抜き師の中にはベトニーを用いる者もおりますが、私はこの2種に限定した方がかえって効きが良いように思います」


「かえって効きが良い、ということは、お前も使ったことがあるのか?」


「いえ、私自身は歯を抜いたことはございません。技術のためにはやってみたいところではあるのですが、歯の健康を訴える歯抜き師に歯が揃っていなければ信用にかかわりますので……」


「ほう?」


「抜いた患者の経過を密かに観察しておりました。どれだけ痛そうにしているか、また周囲に痛いと言いふらしているか。歯抜き師には評判もついて回りますので」


「なるほどな。ヘカテー、なぜその種類を限定したほうが効きが良いのだと思う?」



 突然話を振られて、私は考える。



「おそらくですが、濃度の問題ではないでしょうか。アグリモニーはそもそも外傷に効く薬草、ヤネバンダイソウは収斂作用があり激しい出血に用いられます。どちらも歯を抜いた後に用いるのはよくわかります。ベトニーは万能薬ですが、幅広く何にでも効く分効果は穏やかなのかもしれません」


「確かに、ベトニーが本当に万能なら修道士が多くの薬草を育てる必要もない。ベトニーだけで事足りる。ともかく、アグリモニーとヤネバンダイソウが外傷や出血に効くのなら、歯抜きだけの薬ということもない。オイレ、その薬をフリーゲの傷に」


「かしこまりました」



 オイレさんは両手をお酒で浄めると、丁寧な手つきで傷口に薬を塗りこんでいった。フリーゲさんの表情に変化はないので、特に刺激はないと思われる。



「Διοσκουρίδης έγραψε επίσης για την Αγριμόνια στο "Περὶ ὕλης ἰατρικής".(ディオスコリデスも『薬物誌』でアグリモニーについて触れていますね)」



 オイレさんとの話の内容をギリシア語に訳すと、ジブリールさんは納得したようにそう言った。その言葉に、ヨハン様が反応する。



「Το έχετε διαβάσει;(読んだことがあるのか?)」


「Ναί. (ええ)」



 ディオスコリデスの『薬物誌』、それは以前ヨハン様が断片しか手に入らなかったとおっしゃっていたものだ。方伯のご子息の力をもってしても手に入れられなかった本を読んだことがあるという。



「Όμως, ο Διοσκουρίδης είναι ένα άτομο που ζούσε πριν από 1000 χρόνια. Με ενδιαφέρει αυτό το φάρμακο. Ρωτήστε τον κ. Owl γιατί χρησιμοποιεί λαρδί.(しかし、ディオスコリデスは1000年も前の人間です。私はこの薬の方が興味がありますね。オイレさんになぜ豚の脂を使うのか聞いていただけますか?)」



 ジブリールさんは当たり前のようにオイレさんの薬に話題を移した。アイユーブ帝国の方が地理的にここよりもギリシアに近いので、文献も手に入りやすかったのかもしれないが、貴重な本の知識を披露することもなく、古いからといって切り捨てる様子には、流石のヨハン様も驚かれたようだった。



「オイレさん、なぜ豚の脂を使うのですか?」


「薬が流れ出してしまわないためだよ。歯を抜いた後も、シードルくらいは飲むだろう? 脂は強い粘り気があるし、水に溶けないから、流されずに歯茎に残るんだぁ」



 ジブリールさんに通訳すると、なるほど、と大きく頷いた。聞けば、サラセンでは動物の脂を薬として用いることがあるのだそうだ。例えば、獅子の脂は強壮剤となり、熊の脂はらい病に用いられる。脂だけでなく、肉や毛も薬の原料となるものがある。しかし、豚だけは、預言者が食べることを禁じているというのだ。医学の知識があった預言者が、薬効のあるものを口にすることを禁じるとは思えなかったので、非常に気になったらしい。


 薬としての用途ではないと分かって、安心したような表情が見て取れる。ヨハン様は敬虔なのかそうでないのかわからないとおっしゃっていたが、やはり私にはジブリールさんにとって信仰は大きな存在であるように思えた。きっと、彼の中には明確な論理と倫理があるのだろう。信仰心という共通点が私たちを結ぶのか、信仰するものの違いがその間に壁を作るのか……いつもと同じジブリールさんの無邪気な笑顔が、私には急に不思議なものに見えてきたのだった。

ここまでお読みくださりありがとうございます! ブックマークや評価、ご感想にも感謝しきりです。


ベトニーは中世ヨーロッパでは万能薬とされていたのですが、現在はその薬効を認められていないそうです。アグリモニーとヤネバンダイソウはともにタンニンを含み、タンニンは止血・消毒・鎮痛に用いられます。


動物を薬に使用することについては、中世アラブ地域で用いられたものを挙げていますが、こちらも実際の薬効については不明です。


いずれにしても、衛生面の問題もありますので、真似しないでください。

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