優しい罠
嘘ではないが事実を覆い隠した言葉を返す。クラウス様の表情に変化はない。暖かい笑顔の穏やかな声色のままで雑談が続けられる。
「そうでしたか。2か国語を操るとは、好奇心旺盛なヨハン様に気に入られるわけですね」
「2か国語を操れるというほど、ギリシア語はできません。ヨハン様に気に入っていただくなど、身に余るお言葉です」
「いえいえ、本当にそうだと思いますよ。実際、今までヨハン様が誰かを傍に置きたいとおっしゃったのは初めてでしたし、それがこんなに長く続くとは驚きです。ヨハン様にお仕えしていて、辛い目にあったことはありませんか?」
「辛い目など、とんでもないことです」
「そうでしょう? それだけ大切にされているということです。ヨハン様は少し不器用なところがおありですから」
「不器用、ですか……」
「はい。色々と無礼かつ物騒な噂が流れていますが、私はあれはほとんどが嘘だと思っています。苛烈な性格というより、単に人付き合いが不器用な方なのですよ、あの方は。あなたがそばにいて嫌な思いをしていないということは、それこそがヨハン様に愛されている証拠だと、私は思いますよ」
どきん、と心臓が跳ねる思いがした。
私が愛人だというのはクラウス様の勘違いだし、別に私もそうなることを望んでいるわけではない。だが、親子愛以外の愛を知らない私には、頭でわかっていてなお「愛されている」という単語にはそれだけの衝撃があった。
驚きが顔に出ていたのか、クラウス様はふふ、と声に出して少し笑うと、そっと私の耳に顔を近づけ、囁くようにこう付け加えた。
「もっと自分の魅力に自信を持ってください。あなたは自分が思っているよりも、ヨハン様に愛されている。ですが、もしヨハン様のことで困ることがあれば、怖がらず私に相談しなさい。私はあなたの味方ですからね」
クラウス様はそう言うとそのまま去ろうとする。
しかし私は勇気を出して引き留めた。
「あ、あの! 先ほどの紙を返していただいてよろしいでしょうか。誰が書いたのか気になるので、家族に確かめたくて……」
クラウス様の笑顔に一瞬翳りが見えた気がしたが、気のせいだろうか。
「すみません、お借りしたままでしたね。さ、どうぞ」
「ありがとうございます……」
「では、お休みの件はきちんと処理しておきますから、すぐにでも帰れるように準備しておきなさい」
今度こそ遠ざかるクラウス様を見届けると、私は浮かんでくる色々な思いを振り払うように、速足で食事を受け取りに行った。
まずはヨハン様に事の次第を伝える必要がある。
疑心暗鬼になりすぎではないかと自分でも思うが、先ほど会話したクラウス様はあまりにも優しすぎた。暖かい布団の中に罠が張り巡らされていたような不安を感じるのだ。こんなに気をまわしてくださった理由が単なる優しさではなかった場合、クラウス様経由ではどこまで詳細な話が伝わるか信用できない。
ヨハン様に直接伝える方法を必死で考えた結果、無礼を承知で食事のかごに蝋板を入れることにした。
―― 苛烈な性格というより、単に人付き合いが不器用な方なのですよ、あの方は。
クラウス様の言葉のうち、これだけは信じても良いような気がしたからだ。
本来なら私の立場で私からヨハン様に接触を図るなど言語道断だが、幸いにも私は、クラウス様から言われたことはヨハン様に伝えるよう命じられている。ヨハン様は一時の怒りで理不尽な行動をとるような方ではない。
詳しいことは直接話したほうが良いと思い、手紙には添付の手紙についてクラウス様とお話をしたことをご報告したいため、お手すきの際にお呼びくださいとだけ書き、祈るような気持ちでかごの中に忍ばせる。
……そして、私を呼ぶベルの音がひと月以上ぶりに鳴り響いたのは、かごを置いて自室に帰ってくるのとほとんど同時だった。




