ヘカテー
「申し訳ございません。何か失礼がありましたでしょうか」
早くも逆鱗に触れてしまったらしいことに驚きつつ、慌ててお詫び言う私の目を、ヨハン様はじっくりと覗き込んだ。
「怯えているな。自分の意志ではないということか。誰の差し金だ? 正直に吐けば城の外へ逃がしてやろう。父上や兄上ではないな。ありえそうなのは、叔父上か、考えたくはないが母上か」
何の話か分からずただ慌てふためいていると、ヨハン様の方も私の反応に困惑の表情を浮かべ始めた。
「いつも食事は二階の入口に置くはずだ。それをせず、わざわざここまで来て声を掛けてくるとは、意図があってのことだと思ったが?」
それを聞いてようやく思い至った。あの先輩が、私室の場所だけ教えておいて、規則を教えなかったということに。よく考えればわかることであった。下級の使用人が、ご子息のお部屋に直接赴いて、声を掛けて良いはずもない。きっと、その無礼を理由に私が厳しい折檻に遭うことを企んだのだ。
必死で謝り、知らなかったと弁解すると、ヨハン様は私を訝しげに見ながら剣を下げ、運んだ食事を食べるよう命じた。先の発言から察するに、私がどなたかの命令で毒入りの食事を運んできたと疑っていらっしゃるのだろう。とはいえ、私が普段食べるものより数段良い食事を前にしたおかげで、私は少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
しかし、食前酒を一口舐めた後、パンをちぎって熱々のスープに浸し、さぁ口に運ぼう……とした瞬間、急に手首をつかんで制止された。ヨハン様は部屋の奥から数枚の銀貨を持ってくると、各料理の上にそれを置いた。しばらく待ってからひっくり返すが、銀貨には何の変化もない。
「ほら、見ての通り毒は入っておりません。安心してお召し上がりくださいませ」
ああ、ここでもまた私の運命は分かたれた。この不用意な言葉を吐かなければ、いつも通りの日常に戻っていたかもしれないのに。
「おい待て! 今何と言った⁉」
「ですから、見ての通り毒は入っておりませんので……」
「そう、それだ! お前、なぜ見ただけで毒がないと分かった⁉」
私は、銀は毒に触れると黒くなるため、色に変化がないということは毒が入っている可能性は低いと思ったことをお伝えした。
「なぜお前がその方法を知っているんだ。ここに料理を運びに来るということは、せいぜい下っ端の皿洗いか洗濯女だろう? 俺も三年前に見つけたばかりだというのに」
正直に答えた。私自身は生まれも育ちもこの国だが、家はもともと東方の異国から来たものだということ。銀の話は父より聞いていたこと。それを普通の人が知らない知識だとは思っていなかったこと。
「なるほど。たしかにお前は異国の風貌をしているな。名はなんという?」
「……ヴィオラ、と申します」
「なぜ詰まる、自分の名だぞ? まさか偽名を申したか?」
淡いオリーブの瞳が再び疑念に揺れる。緊張していて、と答えようとしたが、心の深淵まで覗き込まれるようなその瞳を見ていると、この方の前に少しの誤魔化しも通用しないと直感が訴えていた。
ヴィオラという名は通称だ。物心ついた時から、父もこの名で私を呼んでいたが、本名は別にある。しかし私の家では古くからの風習で、女は家族以外に名は明かさず、家系図にもかかないのだ。また、異邦の名を名乗ることで異教徒と間違えられ、迫害に遭う可能性もあった。
そのことを説明して見逃していただくよう冀うと、ヨハン様は声を上げて笑った。
「信条ゆえに、仕える相手に対してさえ偽名を騙るか! 面白い奴だ、気に入ったぞ。決めた。今日からお前を俺専属のメイドにしよう。呼び名もヴィオラじゃつまらん。黒髪に黒い目、蒼白な肌……そうだ、『ヘカテー』なんてどうだ?」
「ヘカテー、ですか」
「ああ。ギリシア神話にある、死と魔術の女神の名だ。近頃は魔女だとも言われて、異端者どもがご執心でな。『塔の悪魔』のそばにいる女にはぴったりの呼び名だろう?」
使用人が本名ではなく、新しくつけた別の名前で呼ばれること自体は珍しくありません。とはいえ、あくまで「それっぽい」名前で適当に呼ぶことがあるというだけで、このようにわざわざ別の名を命名するというものではありませんでした。