傷と毒
フリーゲさんが我慢強かったおかげで無事治療を終えることができたものの、私は怪我で苦しむ人に一時的とはいえ更なる痛みを与えることに対して、やはり複雑な思いを消すことはできなかった。
「ヨハン様、ニワトコとリコリスの薬をお出ししても構いませんか? これほどの大怪我、しかも傷口を縫い合わせたとなれば、痛みは相当のものでしょう。あの薬は打撲のためのものでしたが、リコリスは痛みを抑える薬全般に配合されているように思います。切り傷の痛みも緩和されるか、見てみるのにも良い機会ではないでしょうか」
「それは良い案だな」
「本当は、オイレさんが歯抜き後に傷口に塗り込むといっていた薬が、身体の傷に効くかどうかも試してみたいところですが、まだ作り方を伺っていませんので……」
私の申し出に、ヨハン様は興味深げなお顔でお答えになった。
「いや、薬の効果を確かめるには複数出さない方が良い。でないと、どちらが効いたのかわからんからな。フリーゲ、薬を出してやる。ただし、今日は飲むな」
「え!?」
「いえ、頂けるだけでも大変ありがたいことではございますが……」
出すには出すが飲むなというご返答に困惑していると、理由を説明してくださった。
「痛みは個人の感覚だ。同じ傷を負ったとしてもその者の我慢強さや生来の感覚の敏感さでその度合いは変わるだろう。故に、痛みを客観的に評価するのは困難だが、個人が感じる痛みの変化を相対的に評価することは可能なはずだ。フリーゲ、無痛を1、自分が過去に感じた痛みの最大値を10として、今の痛みは数字でいうといくつだ?」
「そうですね……8か9ぐらいでしょうか」
「では、それが明日の夜までにどの程度変化するかをまず記録しておけ。そして、明日の夜薬を飲み、そこから急速に痛みが静まるかを観察しろ。大きな変化を感じない場合は、明後日の夜の時点での痛みを記録だ」
「かしこまりました」
痛みを数値化する。それはヨハン様らしく理論的で、非常に斬新な考え方だった。隣で見守っているジブリールさんに通訳すると、やはり目を瞠って驚いている。この方の考えることは、天才の頭をもってしても考え付かないことであったらしい。
「それから、その日の体調も一緒に記せ。傷の影響か薬の影響かはわからんが、どのような変化があるのか把握しておきたい。何か大きな変化、例えばそうだな、吐き気や発熱などがあれば、半月を待たずしてまたここに報告に来い。良いな?」
「は!」
フリーゲさんは跪き了承した。ケーターさん曰く末端の新入りとのことだったので、ヨハン様直々のご命令をいただくことはほぼないだろう。喧嘩の怪我が、思わぬ大仕事に繋がったことに、緊張の面持ちでいる。
「Κα. Ἑκατός, Πείτε του να σκουπίζει την πληγή με κρασί καθημερινά.(ヘカテーさん、彼に、毎日傷口をワインで拭うよう伝えてください)」
「Σίγουρα, αλλά γιατί;(かまいませんが、なぜでしょう?)」
「Μια πληγή είναι μια τρύπα του σώματος. Το δηλητήριο θα μπει μέσα από την πληγή.(傷とは身体に開いた穴です。その穴を通って、毒が入ってしまうものなのですよ)」
「なんと……」
「言われてみれば、正に穴ではありますね」
私とケーターさんが驚いていると、ヨハン様は少し悲しそうな顔で呟かれた。
「ヘカテー、それがまさに姉上の死の理由だ。瀉血の傷跡から入った毒に当たったのさ。寝たきりだった姉上が毒を拾ってくるとは変な話だが、おおかた治療を担当した医師か床屋の手にでもついていたんだろう」
「さようでございましたか……」
「傷の毒消しは非常に重要だ。ヘカテー、今後傷を縫う機会も多くなるだろうが、患者に伝えることを忘れるなよ」
「もちろんでございます。肝に銘じます」
初めて解剖の場に同席した時から、ヨハン様が毒消しにこだわっていらした理由を垣間見た気がした。お食事の際にワインをお好みなのも、味というよりは儀礼的なものなのかもしれない。
唯一ギリシア語のわからないフリーゲさん本人は置き去りの状態だが、とりあえず笑顔でお薬をお渡しする。東方のお酒は非常に強い。一番傷が開いていた時に、このお酒で毒消しを行ったのだから、この人はきっと大丈夫だろう。それにしても、どこに毒があるかわからないとは、この世とは意外と恐ろしいものだ。
「ジブリールさんもいらっしゃることですし、自然に存在する毒についても、勉強していきたいものですね」
「そうだな。サラセンの医学には解毒という概念がある。材料が見つからなかったが、お前の祖父の本にもあった。傷口を酒で拭うだけでなく、入ってしまった毒にどう対処するかも考えなくてはならん」




