縫い留めること
お読みくださりありがとうございます! ブックマークやご評価、誤字報告にも感謝です。
今回、傷の治療についての描写があります。苦手な方はご注意ください。
傷を縫う機会は意外と早くやってきた。腕を大きく切られたケーターさんの部下。任務や鍛錬ではなく、町中の喧嘩で傷を負ったそうだ。隠密には、任務時以外は裏町の闇の中で過ごしている人も多いのだという。しかし、末端の新入りとはいえ、たかが破落戸にやられているようでは隠密失格だと、彼を連れてきたケーターさんはぴりぴりとしていた。
「ヘカテー、いくら失敗してもいいぞ。鍛錬の足りねぇ奴には仕置きが必要だ」
「そう言ってさっき散々殴ったのは誰ですか、もう……」
連れてこられた人は蠅さんと名乗った。巻いていた布を外して傷を見せてもらうと、右腕の手首から肘のあたりまで、大きく斜めに切り裂かれている。圧迫がなくなったことにより、あっという間に血があふれてきて、調理場の床にぽたぽたと滴り落ちる。本人は慣れてきているのか平然とした顔をしているが、これはかなりの大怪我だ。ヨハン様とジブリールさんも少し渋い顔をしている。傷が完全にふさがるまで、フリーゲさんを現場に出すことはできないだろう。
「Δεν χρειάζεται να ράψετε όλη την περιοχή. Παρακαλώ ράψτε την πληγή σε λίγα διαστήματα.(全体を縫う必要はありません。少しずつ間隔をあけて縫ってみてください)」
「Ναί(わかりました)」
ジブリールさんが指示を出す。予め概要は聞いている。遺体を縫った時は服を縫うように縫い進めていたが、ジブリールさん曰く、傷が開かないように要所要所を縫い留めるだけでよいそうだ。その代わり、針はかなり深く刺さなければいけない。ヨハン様は以前、ケーターさんの部下の傷を縫ったことがおありだったが、やはり傷全体を縫っていらしたそうで、ジブリールさんの示した方法が想像と違う事に驚いていらした。
「えっと、生きている人の傷を縫うのは初めてなので、うまくできるかはわかりませんが、必ず最後までやり遂げます。よろしくお願いいたします」
「え、メイドさん、死んだ人間なら縫ったことがあるんで?」
「はい。でも、生きた人間の肌の感触とは別物でしたから、参考にはならないかと……」
解剖後に縫った遺体の皮膚の感覚を思い出して、少し寒いような感覚を覚えつつも、まずはきれいな布をお酒に浸して準備をする。そして、目の前の彼を椅子に座らせ、テーブルに右腕を乗せると、小さな木材を渡した。
「さて、フリーゲさん。まずは傷の毒消しを行います。言っておきますが、かなり痛いので、良ければこれを噛んでいてください」
「え、木を噛むんですか?」
「歯喰いしばって耐えろって意味だよ、ボケが」
ケーターさんも、塔の地階で負った傷の治療で、このお酒の刺激の強さは知っている。不思議そうな顔のフリーゲさんに、吐き捨てるように忠告をした。わざわざ痛めつけるようで居心地が悪かったが、私はこれも治療のためと深呼吸をして気合を入れ、針と糸、自分の両手にお酒で毒消しを行い、同じくお酒に浸した布で傷を拭った。
「ひっ」
「なよなよした声出すんじゃねぇ。後でまた殴られてぇか?」
ケーターさんの叱責のおかげで、フリーゲさんは涙目になりつつも、動かず、声も出さずにじっと耐えてくれた。
「πριν από τη ραφή, τραβήξτε τα δέρματα και από τις δύο πλευρές.(針を刺す前に、皮膚をひっぱりあわせてください)」
「Ναί(わかりました)」
羊の腸でできているという弾力のある糸を珠結びにし、針の穴に通す。
「では始めます。万が一、何か異変を感じたら教えてください」
ジブリールさんの指示に従い、縫う箇所の皮膚をつまんで引っ張る。血はどんどん溢れてきてしまうので、拭いながら縫っていく必要があった。私は感情を排し、ひと針ずつ縫っては結ぶ。
「痛いですよね、ごめんなさい」
「大丈夫です。腕を失うことに比べれば……」
フリーゲさんは木材を咥えた口をもごつかせ、涎を垂らしながら懸命に答えてくれたが、その顔は大きくゆがんでいる。糸は結構太いので、引き上げる度に強い痛みが襲っているのだろう。
しかし、痛みを与えることに怖気づいてゆっくり縫えば、辛い時間を長引かせてしまうし、針を浅くしか刺さなければまた傷口が開いてしまうかもしれない。罪悪感は感じつつも、淡々と、しっかり、縫い進める他ない。
なんとか反対側の端まで縫い終えると、傷口がくっつき、絶えず溢れていた血は滲む程度になっていた。ジブリールさんも笑顔で頷き、拍手で称えてくれた。フリーゲさんも加えていた木材を外し、安堵の表情を浮かべる。
「終わりました。また傷の様子を見ますので、半月ほどしたらまた来てください」
「ありがとうございました!」
「いえ、こちらこそ練習させてくださり、ありがとうございま……?」
お礼を言おうとしたところで、妙な視線を感じて上を見上げると、ケーターさんが微笑んでこちらを見ていた。その微笑みは、あまり上品なものではない。
「どうかしましたか?」
「いや、お前の顔が綺麗だったおかげで、こいつは幾分か治療が楽だったようだぜ」
「ちょ、隊長!」
フリーゲさんは真っ赤な顔で抗議しているものの、否定するつもりもないようだ。そういう目で見られることは本意ではないのだが、結果的に治療に役立ったなら納得することとしよう。




