痛みと共に生きる者
それからしばらくして。父の夢の余韻もまだ残る中、私の部屋の扉を叩いたのもまた、父にゆかりのある人だった。
「よう」
「ケーターさん! ご無沙汰しています! お会いするのは12月ぶりでしょうか」
「そんなもんか。まぁ、最近は割と落ち着いていたからな」
「お元気そうで何よりです」
「馬鹿言え、俺はいつでも元気だ。さ、とっとと上行くぞ。今日はお前を連れて行けと言われている」
言われている、ということは、ケーターさんは私と会わない間にも、ヨハン様からのご命令を受け取っていたということになる。どうやら、情報を扱うお三方と違い、報告時必ず私を連れてくるようにとは言われていなかったらしい。ケーターさんは私の部屋に直接手紙を放り込めるような人。私の部屋の前を通らず、直接ヨハン様のお部屋に飛び込んでご報告していたのだろうか……知り合って2年ほどになるが、やはり、隠密の方々は不思議だ。技能が人間離れしていて、どんなことをしていてもおかしくないような気がしてしまう。
「失礼いたします。ケーターです。ヘカテーを連れてまいりました」
「入れ」
ヨハン様の一言で、私たちはお部屋の中へと足を進める。ケーターさんは凛とした表情で跪き、ヨハン様のお言葉を待っているようだった。
「ケーター、今日お前を呼んだのは他でもない。また、治療の実験台が必要になってな。お前の部下が傷を負ったら、ここへ連れてきて欲しい」
なるほど、ケーターさんは隠密の中でも武力担当の頭を張る人だ。その部下には傷を負う人も多いだろう。
「かしこまりました。どのような傷でも良いのでしょうか?」
「今回対象にするのは切り傷だ。大きくても小さくても構わん。それと、治療は俺ではなく、ヘカテーが行う」
「私でございますか!?」
想定外のお話しに思わず声が上ずってしまった。
「傷を縫う技術も、床屋に教えておきたいのさ。しかし、ロベルト修道士は年齢が高く、おそらく目がさほど良くない。ドゥルカマーラ先生が、自分の医学を教えるのに、失敗して指を刺したりしていては説得力がないだろう?」
床屋に教える。それは最近になって決まった方針だった。
ロベルト修道士様とジブリールさんは相変わらず少しぎくしゃくしてはいるが、それでも修道士様の脱臼治療習得は順調に進んだ。あとは、騎士たちにロベルト修道士様から教えていけばよい段階まで来ている。しかし、傭兵は常に同じ人がついているわけではないため、今後は信頼できる床屋を選び、戦地に連れていくための契約をするということになったのだ。それなら、切り傷や擦り傷にも対応できるので非常に効率が良い。
とはいえ、戦場の傷で最も多いのは切り傷だ。床屋たちは布を巻いて治療を行うが、どんなに布できつく縛っても血が止まらないような致命傷もある。そのような場合に縫って対応することで、救える命があるということだろう。
「ヘカテー、お前は繕い物が巧く、死体の傷を縫ったこともある。床屋に教える際は、お前が作業にあたれ。とはいえ、死体と生きた人間では勝手が違うだろうから、まずは練習として、隠密が切り傷を負った際の治療を任せるということだ」
「さようでございましたか……しかし、私が表に出て良いのですか?」
「ラースに薬を教えたときも作業をしていただろうが。別に大勢の前に顔を出すわけではない。契約する床屋は一人か二人、しかもドゥルカマーラ学派の者だ。そもそも医師は理論が専門で、自らが傷をいじくりまわすことはない。しかも治療内容が縫合とあれば、指示のもとに手を動かすのが女であっても、誰も不思議には思うまいよ」
「それでは、きちんと習得させていただきます。ケーターさんも、よろしくお願いいたしますね」
「ああ。俺の部下は皆、根性がしっかりした者ばかりだ。一般人のように悲鳴を上げたり逃げたりせず、命令とあればじっと止まって痛みに耐える。練習にはぴったりだろう」
たしかに、傷を負った部位を針と糸でいじくりまわされることを考えると、与えられるだろう痛みの強さはぞっとするものがある。しかも、痛みのせいで暴れまわったりされたら、こちらも手元が狂って変なところを刺してしまいかねない。傷口を縫っていてもじっと止まっていてくれるというのは、練習する側としては非常にありがたい話だった。
「縫うのに最も適しているのは羊の腸でできた糸、次いで絹糸だ。羊の腸は今度ヤープに作らせておこう。他にも、焼灼止血法といってな、小傷であれば、縫うのではなく焼いたほうが早いこともある。こちらは炙ったダガーをあてるだけだから、自ら治療することもできそうだな」
「部下のひとりが以前、ヨハン様にそのような治療を受けたと言っていました。それ以来、私の部下の間では実際に自分でできる止血法として広まっております。戦いを生業とするものであれば、すぐに実践するのではないでしょうか」
「そうか。では床屋に覚えさせたら、治療に来た騎士や傭兵に広めるよう指示しておこう」
お話を聞きながら、私はなんとなくケーターさんの手を見やった。以前抜かれた爪は復活しているが、やはりその影響か、少し奇妙な形をしていた。私はあまり傷に親しんでは来なかったが、当たり前のように痛みと共に生きる人々もいる。自らが傷を負うことはなくとも、その痛みに寄り添える者でありたいと思った。




