幼き日の夢に
「……さん」
気づくと、私は何かを喚いていた。熱い頬と、そこを伝うとめどない水の感覚。あたりを見回せば、扉も、椅子も、テーブルも、あらゆる周囲のものが妙に大きく感じる。
「……さん、お父さん」
「どうしたヴィオラ、そんなに汚して。さ、早くこっちへおいで」
耳をつんざく私の泣き声と、柔らかい父の声。そうか、私は今夢を見ているのか。
たまに、こうして夢を夢と認識できることがある。しかし、これは夢といっても、幼き日の記憶の再生のようだ。私は、自分の思うように自分の身体を動かすことはできず、足が勝手に進むまま、ただよたよたと父の方へと歩いて行った。
「トーマスがね、泥を投げたの。私を魔女だって言って。そしたら、聞いてたみんなが一緒になって投げてきたの」
私の唇は震えながら言葉を紡ぐ。そういえばそんなことがあった。仲良くしていたはずの男の子が豹変した日。あれ以来、私は仲良しの子を作らなくなった。
「魔女な訳がないだろう、私の天使。トーマスはどうしてそんなことを言い出したんだい?」
父は手近な布で私の顔を拭い、問いかける。ああ、なんて懐かしい、優しい目だろう。父は私のことをいつも天使だと言ってくれた。
「わかんない……急にね、私にはお父さんしかいないから、母親はしょうふなんだろうって言われたの。しょうふの血を引いたあばずれ女、黒は悪魔の色だから、その髪と目が魔女の証拠だって……ねぇお父さん、しょうふってなに? あばずれってなに? 髪の毛が黒いのはいけないこと?」
拭っても拭っても、溢れてくる涙。擦られた頬がひりひりと痛む。そのうち父は顔を拭うのを諦めて、泥だらけの私をその腕の中にぎゅっと抱きしめた。
「誓ってそんなことはないよ。ヴィオラも私も、この身体は神様から授かったものだ。トーマスは何もわかっていない愚か者なのさ。彼の言葉はきっと……そうだな、負け犬の遠吠えというものだね」
「犬?」
「そう、犬が吠えていると思えばいい。こんなに泥だらけになって帰ってきたということは、ヴィオラは頑張ってその言葉に向き合おうとしたんだろう? でも、今後彼の言うことに耳を貸す必要はないよ。どんなに声が大きくても、言葉自体に大した意味はないからね」
「でも、昨日まで仲良しだったんだよ? 聞いてあげなくちゃ、かわいそうじゃない?」
「そんなひどいことをした子のことまで慮るなんて、本当に優しいね、ヴィオラ。でも、君に心無い言葉を掛ければ掛けるほど、彼は罪を重ねることになる。まして、言葉だけでなく泥まで投げてくるなんてとんでもないことだ。相手のしたいことに付き合ってあげることが、必ずしも誠実な態度とは限らないんだよ」
父は抱きしめた私の背中をぽんぽんとたたきながら、諭すようにそう言った。
「でも……」
「無視をするのは気が引けるかい? じゃあ、次に何か言われたら、背筋を伸ばして、真っ直ぐに彼の眼を見て、ひとことこう言うんだ。『何か御用なら、私の騎士が相手をするわ。剣の腕に覚えがあるならいつでも家にいらっしゃい』ってね」
「剣の、腕……?」
言われた言葉を鸚鵡返しにしながら見上げると、悪そうな笑みを浮かべた父の顔。この『騎士』とは当然父のことだ。当時はおとぎ話のお姫様のような気分で聞いていたが、今思うと、本当に騎士だったのだから洒落にならない。
「わかったね? 正しい道を歩もうとするのなら、自分が罪を犯さないことだけに気を配るのでは足りないんだ。相手に罪を犯させないようにも気を配らないといけないよ。今回の件は悲しかっただろうが、そのための勉強だね」
「はい……」
「うん、いい子だ。さぁ、わかったら着替えておいで」
いつの間にか泣き止んだ私を促す父に、私は改めて問いかけた。
「ねぇ、お父さん。しょうふって何? お母さんは、どんな人だったの?」
すると、父は急にひゅっと息を呑み、痛みをこらえるような、見たことのないほど悲しい顔をして俯いてしまった。
「その言葉の意味を、君はまだ知らなくていい。しかし、これだけははっきり言っておこう。君のお母さんは決して娼婦などではない……聡明で、高潔で、誰よりも美しい人だったよ」
静かに語る声に、父の母に対する想いの深さを感じ取る。
「……素敵な人だったのね」
「もちろん」
「いつか天国に行ったら会えるかな? そしたら3人で一緒に暮らせる?」
「やめなさい、そんなことを言うのは!」
珍しい大声での叱責に、私の方がびくりと震えた。それを見て、父は少しはっとしたように、再び私を腕の中に閉じ込めた。
「あの方に出会えて、君を授かって、私は本当に幸せに思っている。いつか君にもそういう出会いが訪れるかもしれないね。その出会いが暖かく優しい人生をもたらすものであることを、私は祈っているよ」
父は確かにそう言った。ティッセン宮中伯夫人との出会いは、幸せなものではあったとしても、優しいものではなかったはずだ。乳離れしたばかりの幼子を連れて、おそらくは何度も死線をかいくぐりながら、遠くこの地まで逃避行を続けてきたのだから。トーマスの気持ちに気づかなかった私にも、いつか恋をする日が来たならば、それが波乱をもたらすものではないことを祈る、悲痛な親心。
そして、彼は続けて言った。
「君の存在は奇跡であり、私の宝物なんだ。この機会に教えておこう。私はいつも君をヴィオラと呼んでいるが、君には本当の名前がある。君の名前は……」
……目が覚めて、私は想う。父は、自分が天国に行くことはないと考えていたのだろうか。それとも、たとえ天国に行っても、3人では暮らせないと考えていたのだろうか。いずれにしても、自分のしたことを罪であると認識していたのだ。きっと、悪意を持って宮中伯を裏切ったわけではなかったのだろう。そして父は……夫人のことを愛していた。
今、どこで何をしているのかわからないが、もしまた会えたのなら伝えたい。私にも、そんな出会いは訪れたのだと。




