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声なき問答

 ジブリールさんは、唐突に書き込まれた不躾ともいえる質問に、さも気にしていないという風の表情で、返答を書き込まれた。



『私の耳は、音が全く聞こえないわけではありません。会話は困難ですが、音を感じ取ることは可能です』


『そのようなことがあるのですね。初めて知りました』


『耳の病にも、ふたつの種類があります。ひとつは、音の大きさが小さくなってしまったり、全く聞こえなくなってしまったりする病。この種類の病の存在はよく知られていますね。ですが、実はもう一つ種類があって、音の輪郭がぼやけ、聞こえる音の幅が狭くなることがあるのです。この病にかかると、男の声は聞こえても女の声は聞こえない、母音は聞こえるが子音の判別ができないなどの現象が起こります。音を手紙に例えると、前者はそもそも手紙が届かないか家までたどり着いていない状態、後者は届いたもののバラバラにちぎられていて読めない状態と言えばわかりやすいでしょうか』


『なるほど、勉強になります。すると、後者の耳の病は治療が難しいのですか?』


『どちらの型であっても難しいですね。ごく一部を除き、耳の病の明確な治療法は未だありません』


「一部を除き?」



 ロベルト修道士様と私は微妙な返答に顔を見合わせた。



『治せるものもある、ということでしょうか』


『例えば、耳のつまりや炎症による軽度のものであれば、ザクロの皮とアーモンド油を煎じ、静かに耳に注ぎ入れて内部を掃除することで改善できます。この時、油が耳の中に残ったままだと、奥に流れ込んでかえって悪化させてしまいますので、都度きれいに流しきることが大切です』



 すぐにすらすらと適切な治療法が出てくるところはさすがジブリールさんだ。ロベルト修道士様も、その方法はご存じなかったようで、物珍しそうに綴られた文を眺めていらっしゃる。ジブリールさんはその反応を見て少し嬉しそうな顔をすると、勢いづいたように治療法を書き連ねていった。



『他にも、時折、心の病により、一緒に耳も悪くすることがあります。これは心の平穏を取り戻せば良くなりますので、ある意味治療が可能な耳の病のひとつと言えますが、心の病はそれ自体が非常に治療の難しいものです。この場合は手術よりも、薬や香りによる治療になります』


『香りによる治療とはどういったものですか』


『患者の様子を見て、判断します。私なら、憂鬱でふさぎこんでいるのであればオレンジの果実や花の香りを用い、逆に、気持ちが高ぶって苛立っているのなら、ラベンダーや乳香を用います。しかし、何よりも重要なのは、患者の悩みを根気よく聞き出し、不安を取り去る手助けをすることです』


『なるほど……難しいものの、治療が可能な耳の病もありはするのですね』


『はい。ただ、私はそのどちらでもありませんでした。耳は清潔で炎症もなく、心が不安定ということもありません』


『それ故に、これだけの知識をお持ちでありつつも、ご自身を治療することはできなかったと』


『医師であっても所詮は人間です』



 ロベルト修道士様はしばらく首をひねったのち、続けてペンを走らされた。



『だとしても、あなたの医師としての腕が確かであることに変わりはありません。先ほどの脱臼の治療といい、香りによる治療といい、大変幅広く、かつ深い医学の知識をお持ちとお見受けいたします。さすがはヨハン様がお呼びになっただけのことはありますね』


『修道士様にそのようなお言葉をいただけるとは光栄です』


『どうして医学を志されたのですか? やはりお耳を治そうと思われたのがきっかけなのでしょうか』


『いえ、自分の耳のことは学ぶ道の選択に影響しませんでした。私の祖国にこんな言葉があります。学問に二学ある。教えの学と、身体の学と……私はあらゆる学問を修めてまいりましたが、医学こそは最も御心にかなうものであると思ったのです』



 やはり、と私は内心思った。ジブリールさんの医学の研究に対する執念は、ほとんど信仰心といってよい。



『病とは神がお与えになるものです。患者には耐え忍ぶ試練として、治療者には戦う試練として我々と共にあります。医師はあくまで身体が自然に治る(・・・・・)手助けをするものであり、その期間は神がお定めになっていることでしょう。しかし、病を見つけたのならば、取り去る努力をすることを望まれていると私は考えています。与えられた試練に何よりも自ら立ち向かう学問こそ、医学なのです』



 戦いの学問。それは、ジブリールさんの人となりをよく表している言葉に思われた。こういった姿勢が、ヨハン様のお心も動かしたのかもしれない。


 ……だが、私の感動をよそに、ロベルト修道士様は無表情のまま、問いを投げかけられた。



『大変失礼な質問をさせていただきます。申し訳ありません。あなたは、キリスト教徒なのでしょうか?』



 ジブリールさんの顔が初めて曇る。目尻が下がり、困ったような笑顔が浮かんだ。そして彼は戸惑いながらペンを手に取り、たった一言を記したのだ。



『いいえ』



 その一言を見たとき、私は初めて思い至った。ジブリールさんが、耳の不自由な役を演じつつも、これまでの問答で一度も嘘をついていなかったということに。

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