暖かい家
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その願いに、ヨハン様は無言でナイフを手渡された。早速、上下の管に刃が入れられ、肉でできた奇妙な袋が切り出される。ジブリールさんはそれを手に取ってしばらく眺め、弄りまわしたのち、手許から下ろしてペンを執ると、こう綴った。
『なにか、使っても良い液状のものはありますか? 水でもお酒でも構いません。この中に入れてみたいです』
「オイレ、そこの樽とコップを持ってこい。井戸水が入っている」
「は」
オイレさんが樽とコップを持ってくると、ジブリールさんは下端をつまみ、丁寧な手つきで水を流し込んでいった。
「おお……?」
ヨハン様から驚きの声が漏れる。それはオイレさんと私も同様だ。ジブリールさんの手の中で、切り出された胃がどんどん大きくなっていったのだから。
ジブリールさんは満足そうな顔でその様子を眺めると、つまんでいた下端を離して水を捨てる。
『どうして膨らむとわかった?』
『食べ物を最初に処理する器官にしては、小さすぎると思ったのです。私たちは最初に手にした時の大きさの袋に入るよりも、もっとたくさんの量を食べますから。生前であればより大きな変化があるのでしょう』
『なるほど。以前切り開いてみたとき、内側に皴が多いのが気になっていた。皴の分だけ膨らむのだな』
『おそらく。私は見たことがないので、ここで切り開いてもよろしいですか』
『無論だ』
胃の内壁は無数の皴がある。ジブリールさんはそれを引っ張って伸び縮みさせて見せ……しかし、途中でちぎれてしまった。
『やはり胃は腐敗が早いですね。あるいは溶かされ始めていたからかもしれませんが……おそらく、生きている間はもっと弾力があったはずです』
すかさず、オイレさんが質問を書き込む。
『なぜ、伸縮する必要があるのでしょうか。最初から大きな容量の袋にしておけば十分そうな気がしますが』
『絞るようにして、溶かした食べ物を十二指腸に送るためだと思います。皴の入り方をよく観察すると、縦に蛇腹状になっていますので』
『なるほど』
『それから薄くてよく見えませんが、断面も層になっているようです。溶かす液を出す部分と、伸縮させる部分で分かれているのかもしれません』
今までみんなで解剖をして、詳しく観察し、精緻な図まで残してはきたが、それはあるがままを写し取っただけだった。だが、ジブリールさんの着眼点が加わると、臓器のあらゆる形や位置に意味があることがわかってくる。
私は思わず書き込んだ。
『ジブリールさんの観察力と想像力は凄いですね! やはりヨハン様が尊敬されるだけあって、今までお会いした中で一番の天才です!』
すると、意外な答えが返ってきた。
『私はどちらも余り長けてはいません。能力でいえば、ヨハン様の方が私より上でしょう。ただ、私は論理学を修めています。人体を合理的なものと思うからこそ、論理的に考えればどんな機能が備わっているはずで、どこを観察すればよい、という推測が立てられるのですよ』
謙遜ではなく、自分の能力について把握している事実を述べるのみ。やはり彼は、どこまでも学者だ。
『論理学はあらゆることに応用が効きます。医学のみならず、天文学や数学、哲学にも。私は近道をしています。本物の天才とは、アリストテレスのような人間を言うのです。私は彼の肩の上に立っているだけですから』
『私は、アリストテレスについてはきちんと学んでいませんが……それでもジブリールさんが凄いことに変わりはありません』
私が尚もそう書き込むと、ジブリールさんは声を上げて笑った。
『ありがとうございます。そういっていただけるからには、少しでもヨハン様のお役に立てるよう、頑張りたいものですね。この老境にあって、未だ新しい知識を得る機会に恵まれている私は、本当に幸せ者です』
「……ジブリールにこんな言葉をもらえるとは、幸せなのは俺の方だな。まぁ、至高の知恵をどこまで使えるか、試されているともいえるが」
ジブリールさんの返答に、ヨハン様の頬も緩んだ。その姿を、オイレさんが嬉しそうに眺めている。
私と視線がぶつかると、ヨハン様はくすぐったそうに目を細められ、話を切り替えられた。
「さぁ、解剖を続けるぞ。胃だけでなく、あらゆる臓器を見ていかねばならん。酒漬けにすれば観察できる期間は伸びるとはいえ、時間は有限だからな。幸い今は俺も手が空いている。これからは、しばらく毎日この4人で解剖だ」
「はい!」
ジブリールさんのためにその旨を紙に書くと、彼は手を叩いて喜んだ。遺体から臓器を取り出して観察するという特異な学問を通して繋がっている縁だが、私は今、この空間がたまらなく愛おしく思えている。
きっとここは、暖かい家だ。ご家族によって幽閉され、刺客を放たれたヨハン様と、父親しか家族を知らず、その父親も偽の姿であった私だが……私たちは決して、傷を舐めあうために寄り添っているわけではない。オイレさんやジブリールさんを巻き込んで、仮初の家族ごっこをしようとしているわけでもない。きっかけこそ強制力を持ったものだったが、今や私たちは各々の意志で、この家に集っている。自らを鍛え、英気を養う場所だからこそ、共に笑い、共に高め合い、必要があれば互いを叱る。狭く日当たりの悪い北の塔であっても、暖かい家なのだ。
ここまでお読みくださりありがとうございます。次回から新章です!




