見えない謀略
「そんな、クラウス様のお手を煩わせるほどのことではありませんわ。この子が急に休みを取りたいと言い出しましてね。もちろん正当な理由であれば私も許可するのですが、言い訳に無理があるのです」
「ええ、お話の流れは大体聞こえておりました。ズザンナさん、私は話を把握した上で相手を代わってほしいとお願いしているのですよ」
「それは……」
家政婦長は女性の使用人の中で最高位の役職だが、さすがに執事に意見できる立場ではない。クラウス様にそこまで言われては、ズザンナ様も了承するほかないようだった。
「わかりました。よろしくお願いいたします」
ズザンナ様が戸惑いながらも退室されると、クラウス様は私に向き直り、優しく話しかけられた。
「さて、ヘカテー。詳しく話を聞かせてもらえますか?」
思わず少し身構えるが、そのお顔はいつもの口元だけの笑顔とは違い、温かみに満ちたものだった。顔を向けるだけではなく、きちんと私の目を見て、安心させるように笑いかけていらっしゃる。目尻に浮かんだ鴉の足跡に、重く詰まるようだった胸の内がすっと軽くなるのを感じた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。責めようとして割って入ったわけではないのです、私はあなたが嘘をついているとは思っていませんから。その紙が窓から入ってきたのですね?」
「はい……」
差し伸べられる手に、思わず紙を手渡すと、クラウス様はわざわざ礼を述べて、受け取ったメモを覗き込まれる。
「これはギリシア語ですか? なんと書いてあるのでしょうか」
「はい、ギリシア語です。『トリストラントは死んだ』と書いてあります。トリストラントとは私の父の名前でして……」
「なるほど、それは大変ですね。確かに窓から入ってきたことは不思議ですが、内容が親族の生死にかかわることです。確認のためにも、一度お休みを取って家に帰ったほうがいいと私も思います」
クラウス様は真剣な面持ちでそう言い、私の手を取られた。
「紙の出所が不確かな以上、まだお悔みは言わずにおきます。不安でいっぱいだと思いますが、気を確かに。あなたのお父様が生きていることをお祈りしていますよ」
冷たく震える私の両手を包むように握るクラウス様の手は暖かく、緊張が徐々にほぐれていくのを感じた。
「ズザンナさんに理解が得られず災難でしたね。手続きに関しては私のほうから指令を出しておきましょう。お休みは3日ほどでよろしいですか?」
「はい、ありがとうございます」
この紙が本当に訃報であるのか不確かな状況にあって、3日のお休みは破格の対応といって良い。執事という役職にありながら、単なるメイドに対してこんなにも親身になってくださることに驚いた。
そんな疑問が顔に出ていたのか、クラウス様は諭すように語りかけてきた。
「ヘカテー、私は使用人は皆この家の大切な財産だと思っております。ただ、その中でもあなたは特別な存在です。跡継ぎはご長男であるベルンハルト様ですが、この家をしっかりと守っていくには聡明なヨハン様のご助力が欠かせないでしょう。そんなヨハン様にとって大切な人は、我々にとっても大切な人なのです。貴女は自分の価値をしっかり理解しないといけませんよ」
ヨハン様にとって大切な人……その言葉は少し胸にちくりと刺さった。
先ほどのズザンナ様の反応もそうだったが、おそらく私はこの家の使用人たちに、いまだにヨハン様の愛人だと思われている。
ヨハン様は最初私を監視するといい、解剖の件を話してからは私を共犯と呼んだ。ヨハン様との間にロマンティックな雰囲気を感じたことは一度もない。
しかし、『塔の悪魔』とまで呼ばれたヨハン様のもとにいながら、傷を負うこともなく安全に、かつこき使われることもなく平穏に日々を過ごしていることで、周囲は私が愛人であるとの確信を勝手に深めているのだろう。つまり、私の価値は過大評価されている。
思わずうつむいている私を見て、クラウス様は話題を変えてきた。
「そういえば、あなたは文字が読めるのですね」
「はい、父に教わりました」
「この国の言葉をとても流暢に話しているので、ここで生まれ育ったかと思っていました。普段はギリシア語を?」
「いえ、クラウス様のおっしゃる通り、私は生まれた時からここの領民でして……」
ここまで話した時、急に疑問が浮かんだ。なぜ、クラウス様はここまで手をまわした上に、わざわざ雑談までしてくださるのだろう? 確かに丁寧な方だが、いつもは事務的なお話のみで早々に切り上げるはずだ。
―― クラウスから何か言われた時には、些細なことでもすべて俺に伝えろ
ヨハン様もそう警告していた。なのになぜ私はいつの間にか、クラウス様の優しさにほだされている? ついこの間まで、苦手に思っていたはずなのに。
いや、あの口元だけの笑顔を苦手に思っていたからこそ、目の前のクラウス様の表情を心からの笑顔と思い込んでしまったのではないか?
もしそれをわざとやっているとしたら……クラウス様は信頼してよい相手ではない。
「……普段は喋るのも読み書きもドイツ語を使っているのですが、父はギリシア語ができましたので、少し教えてもらっていたのです」
私は急に生まれた警戒を悟られないように気を付けながら、言葉を継いだ。私がお仕えする方はあくまでヨハン様だ。ギリシア語をヨハン様から教えていただいたという事実は、「敵ではないが味方でもない」方へ告げるべきものではないと、私は判断した。