川の水
想像だにしなかったご発言に思わず固まっていると、ヨハン様は続けられた。
「関節を外して戻すだけだろう? 解剖と違って、遺体を傷つける訳でもない。さすがにこの遺体は腹を裂いてしまったから、まだ見せるわけにはいかんが、新たな遺体が用意できたときに、ジブリールからロベルト修道士に教えればいい。そこで、遺体を使っての筆談による説明という状況から、修道士が何をどこまで見抜いてどんな反応をするか……くく、見ものだな。早く試してみたいものだ」
「あの、修道士様がジブリールさんを攻撃したり、相談役を辞めるとおっしゃった場合はどうされるのですか……?」
久しぶりにお見せになったヨハン様の悪辣さ。どぎまぎとしながら問いかけると、こともなげにおっしゃった。
「ロベルト修道士がその程度の手合いなら、俺は傍に置こうとは思わん。別に大した博打でもないさ」
「さようでございますか……」
非情とも取れるご判断だが、合理的だ。それに、笑顔でおっしゃるあたり、きっとロベルト修道士様がそんな反応を示さないだろうことを予見していらっしゃるのだろう。
修道士様は普通の修道士様ではない。ご自身の忌避感と、ここで目的のためにヨハン様の手助けをする重要さを天秤にかけたなら、後者を取る方のような気はしている。しかし、お仕えするのは主なる神のみ、俗世の地位に興味はないともおっしゃっていた。祈りに生きる修道士としての信念が、どこまでその合理性に影響するか、私には確固たる自信を持つことはできなかった。
「とはいえ、今日のところはまず解剖だな。せっかく開いた腹の中だ、きちんと調べなくてはこの者に対しても失礼というものだろう」
「……おっしゃる通りですね。ジブリールさんにとっても貴重な機会ですし、しっかり調べてまいりましょう」
ジブリールさんは、綺麗に揃った臓器を見て感動していらっしゃるようだった。
『なるほど、私の見てきたものはやはり不完全なものばかりだったようです。三日月型の臓器は胃ですね。その下に伸びているのは膵臓でしょうか? 先日見せていただいた絵とは少し形が違うようですが』
『その通りだ。実は、俺は死んだ直後の遺体を解剖する機会に恵まれたことがある。見せた絵はその時写した絵をもとに描いたものだ。この遺体は新しいとはいえ、膵臓は少し溶けているようだな』
ヨハン様も流石に詳細はぼかされた。とはいえ、殺されそうになったご経験のことを恵まれたと言い切ってしまわれることに、私は複雑な想いを抱いてしまう。ヨハン様にとっては結果良ければすべて良しということなのかもしれないが、もう少しご自身の危険を顧みていただきたいものだ。命なくしては、目指される医療の発展も頓挫してしまうというのに。
……そんなことを思いながら、ぼんやりと紙面を眺めていると、ジブリールさんは続けて書き連ねた。
『そういえば、内臓は溶けるものでしたね』
『刑吏の間でその知識が伝わっていた。この現象は肝臓系の臓器の一部で起こる。食べ物を溶かすために出している液に対して、生きている間は抵抗できるが、死ぬとできなくなるようだ』
『おそらく我々の身体は、食べ物を力として取り込む過程で、溶かして細かくしているのでしょう。肉は肉に、骨は骨になりますが、噛み砕いた程度の大きさでは、まだ十分ではないのかもしれません』
『もう少し詳しく説明してくれ』
『簡単に言えば、食べた肉がその形のまま私たちの筋肉になっている訳ではないということです。私たちの身体は、筋肉も脂肪も均一につき、なだらかな表面をしているでしょう? これはきっと、砂利よりも砂の方が表面がなだらかになっていること、そして砂よりも水面の方がさらに平らであることと似た仕組みです。食べ物は咀嚼され、臓器の中で溶かされて、目に見えないほど細かな粒へと解きほぐされるのです。そして、それがどの部位にも少しずつ、等しく使われているのだと思います』
確かに、そう考えると食べ物を溶かす機能があるのも納得がいく。しかし、問題はもう一つあった。
『細かな粒へと解きほぐされた食べ物が、どうやって体中に行き渡っていると思う?』
ヨハン様の質問に、ジブリールさんはすかさず答えを書き加える。
『おそらく、血、もしくはリンパ液の中に混ざっているのではないでしょうか。これらは全身に存在しますし、一箇所にとどまらず流れてもいますので』
「ヘカテー、以前お前がプネウマに対して出した見解と同じようだな」
「はい。ジブリールさんと同じことを考えていただなんて嬉しいです」
そう、奇しくもそれは、以前私が呼吸の力の取り込み方について思ったことと同じだったのだ。血は水、そして身体を宇宙とするなら、血管は大地を流れる川だという考え方と。




