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余話:ある騎士の憂鬱

ティッセン宮中伯に仕える騎士の視点です。

 家から城内の居館へと向かう短い道中、思わずふう、と溜息をつく。暖かい日差しに映える高い城壁。この内側に植えられている(・・・・・・・)のは毒の花だ。今から私は、その花粉を吸い込みに行かなくてはならない。


 私がこのティッセンのお家に上級騎士(ミリテス・リベリ)として仕えるようになってから、既に数年の月日が経った。世の中では、貴婦人と騎士の貞淑な恋がもてはやされているが、私にはそれが訪れることはないと誓って言える。


 もちろん、私も初めて奥方様を見たその瞬間は、自分も同じ苦しみの中に身を置くのかもしれないと思い悩んだ。何しろ、奥方様は余りにも人間離れした美しさを持つお方だ。髪の色は暗いが、透けるような滑らかな肌に妖精を思わせる紫の瞳。頬骨は高く、薔薇色に色づいていて、よりはっきりとした赤みを湛えた艶良い唇と対をなす……正に息をする芸術品だと思ったものだ。


 しかし、その瞳の奥にある薄暗さ、笑顔を向ける必要のない者たちの前ではぴくりとも動かぬ頬に、奥方様の極端な二面性を見てしまった初日から、私にとって彼女はただ義務的に仕えるだけの対象となってしまった。いかにその入れ物が美しかろうと、宿る魂を美しく思えなければ恋心など芽生えようもない。このお家に仕えること自体には何の不満もないが、私にとって夫人のいる場に向かうことは憂鬱の種でしかなかったのだ。



「失礼いたしま……」



 そんな物思いにふけりながらも居館にたどり着き、扉に向けて声を掛けようとした私は、中の様子がいつもと違うことに気づき、口を噤む。どうやら、宮中伯様と奥方様が何かお話し中のようだ。その声の低さからして、重大な問題についてお話しされているかもしれない。私は遮ってしまわぬよう、そのまま息をひそめて、声をおかけする機会を伺うことにした。



「今回も素晴らしい働きだったよ、アーデルハイト。君の支えなくしてこの家は立ち行かない」


「そんなことはありませんわ、あなた。あたくしはただ、お命じいただくままに、楽しいおしゃべりに興じているだけですもの」


「命じるだなんて言い方はやめてくれたまえ、君は私の大切な妻なのだから。私は君に、ちょっとした頼みごとをしているだけだ。それを実行してくれて当たり前だとは全く思っていないよ。いつもありがとう」


「まぁ、ありがとうだなんて……あたくしのお遊びが、あなたのお役に立てたなら、こんなに嬉しいことはありませんわ。ですが、当たり前と思ってくださって結構ですのよ?」


「そうか、これからも期待しているよ、MEA VIOLA ODORATA(私のニオイスミレ)」



 どうやら、宮中伯様の頼みごとを、奥方様がなにかきいて、それがうまくいったようだ。氷の心をもつ奥方様も、やはり自らの夫のためとあれば骨折りを厭わないらしい。最後に付け加えられた美しいラテン語は、宮中伯様が奥方様と二人の時だけに使う愛称であることを、数年の勤めの中で私は知っている。気難しい奥方様をその手の中に保っている宮中伯様は、やはり相当な才覚をお持ちなのだろう。


 しかし、話はそこで途切れなかった。



「そういえば、イェーガー方伯夫人とは、仲良く(・・・)していてもよろしいんですの?」


「構わないとも。この半年で、すっかり情勢が変わった。かつての好敵手も、これからは協調していきたい相手になったからね」


「では、むしろ積極的に仲良くしたほうがよさそうですわね」


「ああ、そうしてくれ。いくら皇帝から抑え込まれていようと、イェーガー方伯は地の力が桁違いだ。恩を売ることはできまい。互いに利になりそうな話があれば頼むよ」


「AD VOLUNTATEM(御心のままに)」



 甘い声色を保ったまま、すかさずラテン語で答える奥方様。全く衰えぬ美貌に加え、宮中伯様のお心を喜ばせるだけの教養をお持ちとあれば、傲慢さも致し方ないか、と私は一人納得していた。


 ……すると、ふいに扉が開いた。



「あら、夫婦の会話を立ち聞きとは、随分とみっともない上級騎士(ミリテス・リベリ)もいたものね」


「申し訳ございません! お取込み中のご様子でしたので、お声掛けする機会を伺っておりました。立ち聞きなどでは……」


「無様な言い訳はお()し。先ほどの声の大きさなら、ここから十分内容が聞こえることぐらい、あたくしたちは知っていてよ」



 紫の瞳が刺すように私を捉える。訪れる沈黙、そして、徐々に吊り上がる眉。



「申し訳……」


「お黙り!」



 慌てて重ねようとした私の謝罪は、短い一言で遮られた。紅い唇から、呆れたような短いため息が漏れる。



「別に、あの人もあたくしも、聞かれている前提で話していたわ。ここにいたということは、あの人に何か用なのでしょう? さっさと仕事をしたらどうなのかしら」


「は、はい! かしこまりました……」


「騎士の教育については、今度あの人と相談しておくわ」



 無表情で一瞥をくれた後、奥方様は去っていった。ああ、この時間だけが、いつも憂鬱だ。

ここまでお読みくださり本当にありがとうございます! 日頃の応援に心より感謝しております。

ラテン語部分、ルビを振れる文字数の関係で、原語と訳が逆転してしまうので、カッコ表記に修正いたしました。

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