追われた賢者
ジブリールさんは、やはりキエフ経由ではなく、アナトリアを横断してギリシアへと移動し、そこから北上してやってきたのだという。自分にかかわることであらぬ疑いを掛けられぬよう、アフマドさんやキリロスさんのことは頼らなかったそうだ。沿岸部は争いが多いため、都度、さりげなく情報収集をし、その時々の最も安全な道を選んで進む。ギリシア語を流暢に話せるので、キリロスさんの助けがなくても別の商人をうまいこと言いくるめてギリシアからイタリアに渡り……そこから先は普通の旅になったらしい。そうはいっても、それだけの長旅に危険がないはずはないと思うが、腕っぷしが強いわけでもなさそうなのに、全て知恵で切り抜けてきたというのだろうか。
そして、レーレハウゼンに着いたのち、ヨハン様との徹夜のお話しに付き合うことを見越して、しばらく宿屋で十分な休養を取ってからお城にやってきたとのこと。だからもうほとんど無一文なんですよ、と悪びれもせず笑う姿は、お使いの駄賃をねだる子供そのものだった。しかし、ジブリールさんの本を参考に、蒸留器を使ってラベンダーから香りを取り出したお話をすると、ジブリールさんは手を叩いて喜び、ヨハン様の頭をわしゃわしゃと撫でた。彼の瞳には、ヨハン様もまだ少年のままに映っているのかもしれない。
「さて、旅の土産話ももっと聞きたいところだが、そろそろあの部屋を見せてやるか」
「2階のお部屋……そういえば、ジブリールさんは人間の解剖の経験がおありなのですよね。サラセンの宗教はキリスト教と違って、解剖に寛容なのでしょうか」
「それは違うな。もし解剖に寛容ならば、ジブリールはあらゆる死体を買いあさって、完璧な解剖図を描き上げているはずだ。俺たちが数回解剖した程度でわかる間違いなど起こすわけがない。だから、異教の感覚というよりも、ジブリールの考え方が特殊だと考えるべきだろう。そもそも、医学を突き詰めすぎたせいで一度祖国を追われているくらいだからな」
「え? それは、解剖をしたことを罪に問われた、ということですか?」
「いや、殺人罪だ」
「殺人罪!?」
私は思わずジブリールさんの方を勢いよく振り返った。驚いた様子で私を捉える純真無垢な瞳。罪悪感とは無縁に思える。子供が興味本位で蛙を殺すように、医学への探求心から人を殺してしまったのだろうか。
「別に人の身体で遊んでいたわけではないぞ」
ヨハン様は補足する。
「あくまで救うつもりで新しい治療を施し、失敗して死なせたのだ。なんでも、人から人に血を移す治療をしていたらしい」
「血を、移す……取り出して飲むということですか? 何に効くのでしょうか?」
「飲むのではなく、文字通り移動させていた。鳥の羽根の芯を鋭くとがらせて、血が足りない者の血管に刺し、健康な者の血を流し込んだのだ。その治療で数人の命を救ったが、逆に容態を悪化させ、死んだ者たちもいた。ジブリールは処刑されそうになったところを逃げ延びて、トルコへと亡命したのさ」
「それはまた、凄いお話ですね……」
思わずドイツ語で話し込んでしまった私たちを、ジブリールさんは少し不安そうに眺めている。
「Δεν πειράζει. Ας πάμε κάτω.(気にするな、下に行こう)」
皆で2階に向かうと、ヨハン様は少し悪そうな顔をして扉を開け、ジブリールさんを手招かれる。訝しがりながらも覗き込んだ彼は一瞬息を呑み、ひゅう、と驚嘆の声を漏らした。普通の人なら悲鳴を上げるところだが、やはり死体を恐れたり忌み嫌ったりはしないようだ。ジブリールさんは目配せをし、ヨハン様が頷かれたのを見るや否や、黒い瞳をキラキラと輝かせ、内臓の保存されている容器へと走っていき、蓋を開ける。
そして、躊躇なく容器の中に手を突っ込み、中に入っているそれを持ち上げた。以前解剖で取り出した胃だ。私が前回観たときよりも、だいぶボロボロになっている。隣にあるもう一つの胃はもっと崩れてしまっていた。しかし、ジブリールさんは気にした様子もなくふたつの胃を見比べ、しきりに弄りまわしている。
「あの胃って、片方はほとんど完全な形を残してはいませんでしたっけ?」
「ああ。定期的に酒は入れ替えていたんだが、さすがに永久に残るというわけにはいかんようだ。酒による保管も、単に観察する期間を伸ばすだけと考えるべきだな」
「なら、どうして残していたのですか?」
「どの程度保管期間を伸ばせるか知りたかったのもあるが、なんとなく捨てられなくてな……まぁ、あんな状態でもジブリールがこれだけ喜ぶなら、残しておいて正解だったということか」
珍しく歯切れの悪いご返答。しかし言われてみれば、他人の遺体の一部であっても、これらは貴重な思い出の品だ。
ヨハン様は、ジブリールさんに、刑吏に頼んで自殺者の遺体を提供してもらっていたこと、彼から死後の内臓の形の変化について話を聞いたことを説明される。交わる二つの真剣な眼差し。帝国一の頭脳とサラセンの至宝を目の前にして、私は無意識にぴんと背筋を伸ばした。




