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サラセンの至宝

 アウエルバッハ伯によって身元を保証されることとなった私は、表向きは引き続き存在を伏せられているものの、再びヨハン様専属のメイドという立場におさまった。別にこれを機にお城のメイドとしてのお仕事が始まるわけではない。何かあった時、雇われているという形でないとここにいることが不自然になってしまうからだという。クラウス様によって私が就職した時(・・・・・・・)の推薦状と、私が生まれた時(・・・・・・・)母のために作られた誓約書が用意され、私も同様の書類に署名した。これで過去の経緯は書き換えられた。


 ……そして、それからひと月ほど経った時、彼は突然にやってきて、私たちを驚かせたのだ。



「ヨハン様、クラウスでございます。ジブリールと名乗る者が参りましたが、お通ししてもよろしいでしょうか」


「ジブリールだと!?」


「はい。来訪予定のないアルメニア商人ですが、口がきけない様子で……ヨハン様に名前を伝えればわかると……」


「待たせているのか? すぐに呼んで来い!」


「かしこまりました」



 伝言にいらしたクラウス様をお部屋の中にすら入れず、扉越しに叫ぶヨハン様。見たことがないほどお喜びのご様子だ。



「聞いたか、ヘカテー! どこかしらの伝手を使ってくるかと思えば、直接訪ねてくるとは。しかもこんな突然に!」


「アルメニア商人とおっしゃっていましたが……あのジブリールさんなのですか?」


「異教徒との戦争のさなか、サラセンから来たなどと言えるわけがなかろう。服装を整えたところで、言葉や風貌は変えようがない。納得してもらいやすいよう、キリスト教圏の、かつこの辺であまり馴染みのない異邦人を騙ったのさ。ああ、手紙の時といい、ジブリールは(ことごと)く俺の予想を越えてくる!」



 しばらくすると、クラウス様が戻ってこられた。連れられて入ってきたのは、浅黒い肌に黒い髪と瞳をした大柄な男性。肌に刻まれた皴がそれなりの年齢であるだろうことを感じさせるが、その瞳に宿るのは人懐っこい少年のような輝きだった。


 ヨハン様は笑顔でご自分から歩み寄り、彼の右手を両手で握られる。それは、ジブリールさんがヨハン様にとってこの上ない尊敬の対象であることの表れだ。この地において敬意を表す必要があるのはご家族だけであるというのに、遥か遠くの地からやってきた異教徒を、ヨハン様は自分と同等以上の立場にあるものとして接されたのである。


 当然、ジブリールさんはヨハン様の行動に驚愕の表情を浮かべたが、すぐそこに左手を添えて応えられた。



「Χρόνια και ζαμάνια. Κύριε Τζον(ご無沙汰しております、ヨハン様)」


「Χάρηκα πολύ(会えて嬉しいぞ)」


「Και εγώ(こちらこそ)」



 お二人はギリシア語を共通語としてお話しされている。クラウス様は少し驚いたご様子でお二人を眺めていらしたが、ジブリールさんに敵意がないことを確認すると、そっとお部屋を出ていかれた。


 ご紹介されるのを待つべきか少し悩んだが、ヨハン様がここまで敬意を表されるお相手には、自分から名乗った方が良いかもしれない。私もそこに加わってみることにした。



「Χαίρομαι που σε γνωρίζω. είμαι υπηρέτρια του κ. Τζον. Παρακαλώ καλέστε τη Ἑκατός(はじめまして、私はヨハン様のメイドです。ヘカテーとお呼びください)」


「Κα. Ἑκατός; έχεις όμορφο όνομα(ヘカテーさんですって? 素敵なお名前ですね)」


「Με ονόμασε(ヨハン様につけていただきました)」



 ジブリールさんと挨拶を交わす私を、ヨハン様は微笑ましげに眺めてくださっていた。



「ギリシア語もすらすら出てくるようになったな」


「ヨハン様に教えていただいたおかげです。それにしても、ジブリールさんはギリシア語でお話になるんですね。お手紙はきれいなドイツ語でしたが」


「読み書きは書物で学べても、発音は実際に話す者がいないと習得できんからな。初めて会ったときは筆談だった。ギリシア語を選んだのは、医学を学んでいるなら修めているはずだと踏んだのだろう」


「そういうことでしたか」



 ジブリールさんは私たちの会話を曖昧な笑顔で眺めている。やはり、内容は伝わっていないようだ。一通りの挨拶が終わると、ヨハン様は小走りでお部屋の奥へ向かい、以前ジブリールさんから贈られた本と共に、大量の紙を持って戻ってこられた。



「ギリシア語でお話しできるのですから、紙はなくてもよろしいのではありませんか?」


「何を言っている、ヘカテー。筆談に使うわけではない。そこにいるのはサラセンの至宝だぞ? 彼が語ること、一言一句、聞き逃してなるものか!」


「し、失礼いたしました……」



 興奮したご様子のヨハン様。もう、質問したいことが沢山あってうずうずしていらっしゃるのだろう。ジブリールさんは長旅でお疲れの可能性もあると思うのだが、そんなことはヨハン様の眼中になさそうだ。



「あの、よろしければお話の内容は私が控えておきましょうか? 少しゆっくりお話しいただく必要はありますが……」


「いや、自分で書いた方が頭に入る。お前はお前で一緒に話を聞いて、控えは自分用にとっておけ。疑問に思ったことがあれば口を挟んで構わんぞ。お前の疑問は俺にない発想で、新しい発見につながることも多い」


「かしこまりました。では一緒にお話を聞かせていただきます」



 二人でジブリールさんの方を見ると、彼は嬉しそうに大きな笑みを浮かべ、ゆっくりと大きく頷いた。どうやら、いつでも本のお話に入る準備はできていたようだ。

ついにジブリールが到着しました!

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