憐れな子羊
「クラウス様……どうしてこちらに……」
「私はこのお家の執事です。どこのお部屋にも入ることができるのは当然と思いますが?」
身体が固まる。そうだ、わかっていたことだ。ヨハン様はベルンハルト様から、お家のことを頼まれていらした。クラウス様がこの塔にやってくる機会も多くなるとおっしゃっていた。もっと人の気配に敏感であるべきだった。予定外の訪問は全て、隠れてやり過ごすべきだったのだ。
「むしろ、こちらにいるのが不思議なのはあなたの方ですね。あなたは昨年の11月、南の塔で亡くなったはずなのですから」
塔の地階での悪夢の時間が思い出され、私はいよいよ縛り付けられたようにそこから動くことができなくなる。クラウス様の黄味がかった瞳が、怯えた私の顔を映し出す。自分自身の表情が更に恐怖を増幅させる。
「さて、お尋ねしなくてはなりませんね、ヨハン様に。どうしてあなたがこの部屋を我が物顔で使っているのかと。それともあなたが答えてくれますか? もしそうなら、私も手間が省けますし、いつかのように無用な危害を加えなくても済むのですが」
クラウス様は優美な表情を崩すことなく、丁寧な口調で凄む。だが、その言葉で私は我に返った。時間は戻せない。見つかってしまったことはもうどうにもできないのだ。怯えている場合でも、悔いている場合でもなかった。私がしくじれば、迷惑をこうむるのはヨハン様なのだから。
心を落ち着けろ……そう念じて、わざと大きく息をつくと、私はクラウス様の瞳に向かって無言で微笑みかける。返答できないときの対処方法。こんなにも早く、ロベルト修道士様に教わった術を使う時が来るとは。
「……そうですか。誰に習ったか知りませんが、多少は小手先の技も覚えたようですね」
「クラウス様は、私を探しに来られたのですか?」
クラウス様の追及が始まる前に、質問を投げかける。私の頬にはわざとらしい笑顔が張り付いたまま。お世辞にも優雅とは言えないが、今の私にはこれが精いっぱいだ。
「いいえ? 私はただ、ヨハン様のもとにお伺いする途中でした。ただ、この部屋がいつも閉まっているのを、以前から不思議に思っておりましてね」
「何が不思議だというのですか?」
「ヨハン様はあなたの死体を一緒にお眠りになるほど大切にされておいででしたが、その割にはこの部屋を使っているご様子がありませんでした。死体を生きているかのように扱うのなら、あなたが使っていたお部屋に入り浸られてもよさそうなものなのに」
「それで、好奇心から入ってみたら、偶然私が居合わせた、ということですね?」
「はい」
都合の良い理由に飛びつくように即答するということもなく、十分な間を開けての、はっきりとした返答。クラウス様は、嘘をついているようには見えなかった。
「ならば、そのご用事を片づけに、急いでヨハン様のもとに向かわれてはいかがでしょうか。ヨハン様は職務怠慢がお嫌いかと存じますが?」
それは、必死に考えた結果私が出した答えだった。
同じ塔の中で暮らしている人物の存在に気づかないわけがない。見つかってしまった時点で、ヨハン様が私の滞在を許可していることまではクラウス様に知られてしまったという事になる。すると、まだ明らかになっていないのは、私の素性と、ご領主様もそれを承知していらっしゃることだ。
せめてそれを隠し通すには、クラウス様には早々にここを立ち去っていただき、ヨハン様と作戦を練り直すのが最善策だ。それに、ヨハン様なら、クラウス様がおひとりで予定外にご自分のお部屋を訪ねられたことで、私の存在に気づいた可能性に思い至ってくださるかもしれない。
「いえ、急ぐ必要はありません。ヨハン様にお知らせしていない用事でしたから。それに、あなたがここに居合わせたことは、私にとって正に僥倖でした」
しかし、そこはさすがクラウス様というべきか。そんな希望は一瞬で打ち砕かれた。ならばここで、クラウス様を相手に苦手な舌戦を仕掛けるしかない。
すると、クラウス様は眉尻を下げ、困ったような……少し悲しそうな顔を私に向けた。
「そんなに身構えないで、私と一緒に来なさい……いえ、一緒に来てください、ヴィオラ」
「え?」
「あなたのことも、ヨハン様のことも、イェーガーのお家のことも、私には傷つける力は一切ありません。今の私は、ヨハン様に助けを冀いに来た、憐れな子羊にすぎないのですよ」
そう言って力なくうなだれるクラウス様。確かに、つい先ほどまでの迫力は一切感じられない。
「一緒に、どこへ行くというのですか?」
「ヨハン様のところへです」
戸惑う私に懇願するように、彼は私を手招いたのだった。




