心の荷こそ
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調理場の空気が紫色に染まっているかと思うほどの強い香り。しかし、蒸留器を見守ってどの位経っただろうか。ふいにその香りが、甘く青っぽいラベンダーのあの香りに変化した。
「香りが変わったな。そろそろ終わりだ、火を止めよう」
火を止めると、ちょうどコップ1杯分ほどの液体が出来上がっていた。少し白っぽく、薄い層がみえる。
「これが、ラベンダーの花から取り出された香りなのですね」
「ああ。部屋中に充満しているからわかりづらいが、顔を近づけるとよくわかるな」
出来上がった液体から、胸いっぱいにラベンダーの香気を吸い込むと、懐かしさにも似た安らぎを感じ、視界がきらきらと輝くようだった。
「それにしても良い香りですね! 晴れやかな気持ちになります。心の痛みにすら効きそうです」
「心の痛みにも、か。その通りかもしれんな。神経症の者や、戦場で傷ついて恐怖に憑りつかれた兵を落ち着かせるのにも使えそうだ」
「これも他のお薬と一緒にお贈りいたしますか?」
「うん、悪くない。今日は香りの話になったついでで作っただけで、兄上に渡すことは想定していなかったんだが……俺も、この作業に入ってから、自分で驚くほど心が落ち着いている。今日は久しぶりによく眠れそうだ」
「……今まで、よく眠れていらっしゃらなかったのですか?」
ヨハン様のお言葉に、私は少し心配になった。最近はお仕事も落ち着いたご様子で、顔色も良くなってきていらしたが、何かお悩みごとでもあるのだろうか。
「ああ、久しぶりに、は余計だった……気にするな、もともと眠りが深い性質ではないだけだ。ただ最近は、ジブリールの本を読んでいると、頭がさえてしまってな。寝付こうにも眠れず、再び起きだしては本を読んでばかりいた」
「そうでいらしたのですね……では、お眠りになる前に、毎晩これを嗅がれてはいかがでしょうか?」
「そうだな。流石に毎晩はどうかと思うが、仕事に響きそうなときは使ってみるとしよう……気づけばもうこんな時間か。これを片付けたら食事にしようか」
「はい!」
片づけを終え、ヨハン様のお部屋に向かう。安らぎと、ほんのりとした多幸感に包まれているのは、やはり香りに酔っているせいか。お酒の時は気持ち悪くなってしまったが、こういう酔い方であれば悪くない。
配膳をしてテーブルにつき、改めてヨハン様のお顔を見る。やはり、1年前と比べると、随分と痩せられてしまった。それでも、思いつめたような眉間の皴がなく、頬の赤みがほんの少し復活していることが嬉しい。
「なんだ、何か訊きたいことでもあるか?」
また、少し見つめすぎてしまった。ヨハン様は少し居心地が悪そうに目をそらして、わざとらしくワインをひと口。この方はワインをよく飲まれるが、量をたくさんではなく、いつもこうしてひと口ずつ舐めるように口に含まれる。おそらくお好みというよりも、気分を落ち着けるための癖のようなものなのだろう。
「失礼いたしました、その、少し前まで余りにもお忙しそうで、ご体調も優れないようでしたので……今日は少しお元気を取り戻されたようで、嬉しく思いました。ラベンダーの香りでよくお眠りになれるようになれば、さらに良いですね」
「……お前は本当に、人のことをよく見ているな」
「いえ、そんなことは……」
確かに私は他人の表情や感情に敏感な方ではある。とはいえ、無意識に眺めては勝手にご体調を気遣ったりしてしまうのは、それがヨハン様だからだ。正直にそんなことを言うわけにはいかないが。
「昔から、悪夢ばかり見る」
「えっ?」
唐突に、小さな声で、ぼそりと呟かれた言葉。それは少しばかり不穏なものだった。
「いつからそうなったかは覚えていないが、悪夢を見ない日はない。俺はおそらく神経を患っているんだろうな。医学を志すなら、まず自分で自分を治療すべきなのかもしれん」
自嘲的に鼻で笑いながら、再びワインをひと口。ワインは赤みを増したその唇に吸い込まれていき、一瞬で乾いてしまう。
「ヨハン様……それは、お辛いことと……」
「もう慣れた。夢も単なる日常の一部だ。だが……」
ヨハン様の眼差しが、私の付けているブローチに向く。それと同時に、眦がほんの少し緩んだ。
「ここのところ、稀にだが、お前の声が聞こえることがある。すると、引き戻されるように夢から覚める。俺はいつの間にか、随分とお前を頼っているらしい」
「あ、ありがとう、ございます……!」
心臓が飛び上がるかと思った。今まで、ギリシア語を学んだり、薬学を学んだり……それらの動機は皆、ヨハン様のお役に立ちたいからだった。ヨハン様の目指されることを実現するために、ほんの少しでもその荷を担えたら良いと思った。
しかしそれ以上に私は、いつもおひとりで何かと戦っていらっしゃるこの方の、心の荷こそ担いたかったのだ。
「礼を言うのは俺だ。こんな狭苦しい塔に戻ってきてくれたこと、感謝している」
「もったいなきお言葉です! そう言っていただけて、こんなに嬉しいことはありません」
「ははは、まるで騎士だな。これからも頼りにしているぞ、ヘカテー」
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