笑顔の底にある
所用の為明日は更新お休みいたします。次回は2/26(火)0時の更新予定です。
それから私は、仕事以外の時間は全てギリシア語の勉強に充てるようになった。慣れない言語を読み進めていくのは難しいものだが、もともと居館にいた頃より手持ち無沙汰気味だった分、学ぶ時間は余裕があるし、断片的には知っている言葉なのでゼロから学ぶよりは遥かに上達が早いと思う。
ヨハン様からのお呼び出しはそこそこ増えた。大抵はヨハン様の書かれた書類の整理や、解剖時のメモといった雑用だが、目にする機会が増えたことで血に対する耐性もついてきた気がする。
そういえば、解剖に使う動物はどこから手に入れているのだろうか。私が食事と一緒に居館からお持ちするものに動物が含まれていたことはなく、誰かが塔を訪ねてきたことも今のところない。終わった後の死骸はヤープに渡しているが、たまにヤープと話してみても『ここで原皮となる死骸がもらえる』という以上のことは知らなさそうだった。
ヤープの言っていた『頭巾のおっちゃん』というのがヨハン様の変装だとすると、もしかして結構頻繁に塔を抜け出したりなさっているのだろうか。外に出掛けるヨハン様を見かけたことはないけれど……
そんな考え事をしながら夕食を取りに居館へ向かうと、執事のクラウス様に声をかけられた。
「ヘカテー、塔での暮らしはどうですか?」
「おかげさまで、恙なく過ごしております」
「そうですか、それは良かった。あの方の傍にいるのは簡単ではないでしょうから」
「そ、そんなことは……いつも優しく扱ってくださいますし……」
「いえ、もちろんあの性格ですから、傍にいて気苦労は絶えないと思いますが、ヨハン様に直接迷惑をかけられているという話ではありません。あの方は敵も少なくない。巻き込まれないように注意してほしいのですよ」
クラウス様は少し声をひそめると、そういって微笑んだ。
執事という高い役職上、ほとんどお話したことはないものの、正直私はこの方が少し苦手だ。
もちろんこの方を苦手に思っているものは少数派だろう。目下の者にも丁寧な言葉づかいで話してくださるし、貴族らしい優雅さと若々しさを併せ持ち、侍女の間で人気を博しているのも知っている。
ただ、いつも笑顔を貼り付けていらしゃる口元が、私には逆に瞳と頬の無表情さを際立たせているようにしか思えないのだ。単に下級の使用人のことは言葉で気遣うほどには気にかけていらっしゃらないというだけかもしれないが。
「そうそう、塔に戻るときにこちらをヨハン様に」
そういわれて手を差し出すと、受け取ったものは巻かれた羊皮紙だった。
「大切なものです。汚したり曲げたりすることのないように」
「かしこまりました」
「くれぐれもよろしくお願いしますね。もし何か困ったことがあれば、いつでも相談しなさい。私はいつでも味方になります」
クラウス様は羊皮紙を受け取った私の手を、念を押すように両手で包み込むと、静かに去っていった。
クラウス様から『大切なもの』として受け取った、ヨハン様宛のもの。小さなお届け物であっても緊張はひとしおだ。私は塔に戻ると、配膳よりまず先にこの紙を渡してしまうことにした。
「失礼いたします。お食事をお持ちいたしました。それから、お届け物をお預かりしております」
「入れ」
お部屋に入ると、ヨハン様は胡乱な目をこちらに向けていたが、お預かりした羊皮紙を取り出すと納得したようだった。
「クラウス様からです」
「いや、これはクラウスというか、父上だな」
「失礼いたしました、ご領主様からでしたか」
「ああ。俺がこの塔で自由にしていられる理由がこれだ」
ヨハン様は紙を開きながらぴらぴらと振る。
「父上はこうして時々俺に仕事を持ってくる。それを片付けている限り、父上は俺を手放せないのさ。まぁ、塔から出られないのもこのせいと言えるがな」
「さ、左様でございますか……」
お手紙というよりも、指令書のようなものなのだろうか。
確かに座り仕事であれば塔の中でも可能だ。ヨハン様はよく何かを書きつけていらっしゃるが、私には見せないようにしている書類も多い。こうしてお仕事を受けられる代わりに、本や解剖用の動物を融通してもらったりしていらっしゃるのかもしれない。
「つくづく父上は非凡なお方だ。次男以下を家の権勢のために使うなら、修道院に入れて大司教の地位を狙うのが定石だが、時間がかかる上に確証がない。その点、幽閉してしまえば手元におけるだけでなく政敵の油断も誘える。どんな行いも事実上廃嫡していると言えば覆せるし、効力が必要になれば幽閉を解くだけだ。それに情報戦において、父親と敵対している嫡男という立場は使い勝手もいい」
具体的なお仕事の内容はよくわからなかったものの、私はようやく、幽閉中にも拘わらずかなりの自由と贅沢が許されているヨハン様の不思議なご境遇の理由を理解した。しかし、表向きだけならいざ知らず、血の繋がった子供を本当に閉じ込め続けるご領主のお気持ちは、納得できないものがある。
「そんな顔をするな。俺はこの生活を気に入っている。修道院にいたら外科医学なんてできないだろう。父上には父上の、俺には俺の得があるのさ」
ヨハン様は話を切り上げるように音を立てて紙を置かれた。
「ところで、クラウスは何か言っていたか?」
「いえ、特には……大切なものだから、汚したり曲げたりするなとしか」
一瞬『あの方の傍にいるのは簡単ではない』という言葉がよぎるが、失礼なので口には出さなかった。しかし、ヨハン様はそんな私の表情を見て、何かを感じたらしい。
「いいかヘカテー、今後クラウスから何か言われた時には、どんな些細なことでもすべて俺に伝えろ」
「はい……」
「覚えておけ。父上とクラウスは俺の敵ではないが、味方でもないからな。それはお前にとっても同じことだ。俺のそばにいれば接触は増えるだろうが、気を許すなよ」
言い放った時の眼に宿る光は恐ろしく冷たく鋭利で、久しぶりにぞっとするものを感じた。ここ最近は朗らかなお顔でいらっしゃることが多かったので忘れていたが、ヨハン様の笑顔は2種類ある。その半分は刺々しく威圧感に満ちたものだ。
眼と口元で表情が違う点ではクラウス様と似ているが、お二人にはどことなく相反するものがあるような気がする。
「承知いたしました」
一礼して配膳に戻ると、纏っていた冷たい空気がふわりと緩むのを感じて、ヨハン様は私に警告するためにあえて威圧していらしたのだろうと理解した。しかし、そこに何があるのかは、今の私にはわからない。