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使われなくとも薬は

 二日後、外に顔を出すわけにいかない私に代わり、天日干しにしていたオレンジをヨハン様が下ろしてきてくださった。



「きちんと乾いているようだ。鳥にやられてもいない」


「お手数をおかけしてしまい申し訳ありません」



 並んだオレンジに顔を近づければ、生の果実よりも微かだが、その分甘みを増したような香気。吸い込むと頭がすっきりとするような気がした。



「いつも書庫にいるときに思うのですが、植物は食べることによってだけでなく、香りを嗅ぐことでも薬になりそうですね」


「ああ、実際、薬になるぞ。ヒポクラテスは疫病の予防に薬草をいぶして空気を浄化することを推奨しているし、テオプラストスは植物の香りに効用があるとして『臭いについて』という著書を遺している」


「そうなのですね! お借りした本には、香りを楽しむ方法はありましたが、香りそのものの効能が載っているものはありませんでした」


「香りによる効き目は服用するよりも穏やかだからな。効能を重視する本では載っていないのだろう。テオプラストスの本は後で貸してやる」


「ありがとうございます!」


「では、まずは薬だな。手分けして刻もう」



 他の材料はすべて刻んで混ぜてあるので、オレンジを同様に細かく刻んでそこに混ぜればよい。本来は私だけでもできる作業だったが、ヨハン様も一緒に刻んでくださることになった。


 ヨハン様と何かを一緒に作業するのは久しぶりだ。薬づくりは初めて飲み薬を作った時のみだったし、ウリさんの一件以降解剖も行わなくなっていた。ウリさんは亡くなる前に、自分の代わりに協力者となる刑吏を指名していたそうだが、ヨハン様があまりにもお忙しく、医学に割く時間が作れなかったのだ。


 政治のお話をしている時と異なり、影を感じない朗らかな表情のヨハン様を見て嬉しく思った。この方はお家のために背負う物が多すぎる。薬づくりが少しでも気分転換になったら良い。



「種はいかがいたしましょうか? 本には特に指示がありませんでしたが……」


「そうだな、そのままにしておこう。取り去る必要があるならそう書くはずだ。樹皮や根を煮出すくらいだから、種も煮出すことができるのかもしれない」



 薬づくりはすべてが手探りだ。謎の言語による本に書き込まれたギリシア語を、更にドイツ語に翻訳したものをもとにして作る。翻訳の過程で、微妙な意味合いの違いが生まれている可能性もあった。実際に使ってみるまで、効果のほどはわからない。『愛の妙薬』の時もそうだったが、多くの人に実際に使ってもらうことで情報を収集していくことになる。



「どうかしたか? 神妙な顔をして」



 ふいにヨハン様に声を掛けられた。手もとの作業に集中しているように見えて、この方は本当によく周囲を見ていらっしゃる。私が表情に出やすすぎるだけかもしれないが。



「いえ……戦地で使われて、効果が出ればよいなと思いつつ……この薬が使われるときは誰かが重篤な傷を負ったときですから、使われてほしくないとも思いまして」


「確かにな。しかし、ロベルト修道士も言っていた通り、助かる望みが全くないよりは、効果が不確かだろうが試せた方が良い。それに、よく効くという触れ込みの薬は、持っていくだけでも効果はあるのさ」


「それは、大きな怪我をしても生き残れるかもしれないと思って、兵が奮い立つということでしょうか?」


「兵もそうだが……主に兄上にとってだな」



 ヨハン様は少し寂しそうに笑いながらお答えになった。



「兄上は愚直なまでに公明正大で、ご自分に誤りを許さない。故に、戦地においても、最も『勇猛』で『あるべき』戦いをしようとされ……そのくせ、そのために散っていった者たちを想って心を傷められる。大いなる矛盾を抱えているお方だ」



 私は黙って頷いた。勇敢な戦いとはすなわち、それだけ危険の多い戦いのこと。ベルンハルト様は、わざわざ死者の増えるような選択肢を選びながら、その選択をしたご自分を責めてしまわれる。少しでも命を落とすものが減るように、そしてもし命を落とすならそのものが誇りをもって最期を迎えられるようにと、持ち前の力強い言葉をもって奮い立たせ……自分の言葉がなければ戦わず逃げて助かったのではないかと後から悔やまれる。


 誰もが憧れをもって見つめる空色の瞳から零れ落ちたあの涙が思い出された。ヨハン様に刺客を放ったこともそうだ。あの方が、ご自分の過度な公正さ故に、常に理想と現実の間で苦しみ続けていらっしゃることを、私は知っている。



「だから、兄上には、少しでも多くの『言い訳』が必要なのだ。人が死ぬような選択をしたとき、『なぜ多く死ぬと分かっていて自分はそれを選んだのか』と言わせるのではなく、『良い薬があるから多少のことでは死なないと思ったのだ』と言わせて差し上げたい」


「ヨハン様……」



 しかし、ベルンハルト様以上に過剰な公正さをご自分に課しているのは、ヨハン様だと私は思う。自分を二度も殺そうとしたお方の心の内を、こんなにも慮ることが、普通はできるだろうか。そして、その苦しみを少しでも取り去ろうと必死になることなどできるだろうか。



「だから、薬が使われぬままで戻ってきたら、その時はその時で喜ぼう」


「そうですね。できればお薬が使われないこと、もし使われるのならば効果を発揮することを、心からお祈りいたします」



 せっかく今日は明るかったヨハン様の表情を、不用意な話題で曇らせてしまったことを悔いる。せめて私の隣にいらっしゃるときは、屈託のない笑顔で笑っていていただきたい。



「オレンジを刻み終えました。残りの材料と混ぜてお薬を完成させましょう」

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