戦地に花を
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それから、何事もなく日々は過ぎた。ロベルト修道士様は徐々にヨハン様の補佐に割く時間よりも私の勉強に割く時間の割合の方が多くなっていき、私は厳しくも優しいこの師についていくため、必死になって勉強をした。
ヨハン様から言われていた、修道士様の過去のことも忘れてはいなかったが、私は探りを入れるのが下手であることを自覚しているので、自分からそうした質問をすることはなく、流れに任せてお話をするのみ。今のところ、何か引っかかるようなことをおっしゃってはいない。
そして、春が近づいてくるにつれ、私には個人的にお願いしたいことができていた。
「……ということで、正解です。動詞の活用と格変化が完全に頭に入れば、文章を読み解くのはそんなに難しくありませんね」
「はい、ありがとうございます」
「語彙は徐々に増やしていきましょう。まずは文法をきちんと理解することです。しばらくはラテン語に充てる時間を増やしましょう」
そのご提案を、私は否定する。
「あの……きっと、上達のためにはそのほうが良いとは思うのですが……よろしければ薬学の時間の方を増やしていただけないでしょうか?」
「構いませんが、どうしたのですか?」
「もうすぐ春になります。ベルンハルト様が戦地に向かわれる日も近いでしょう……できれば、戦場で役立つような薬を作ってお渡ししたいのです」
「遠征となれば必要な薬はお持ちになるはずです。何もあなたが作らなくてもよいのではないですか?」
「おっしゃる通りなのですが……実は、祖父の本に載っていた薬をお渡しできればと思いまして」
「なるほど。遍歴商人だったというご祖父上の本ですね? たしかに、東方の薬はこの辺りでは出回っていません。私は東方の薬については詳しくありませんが、一緒に試してみましょうか」
ロベルト修道士様は、その本が異邦のものであることを気にされた様子はない。まずは祖父の本をお渡ししてみた。途端に、いつも半開きの彫りの深い両目が、驚きに見開かれる。
「あなたのご祖父上はギリシアの方なのかと思っておりましたが……この文字は、ギリシア語ではありませんね」
「はい……私も、祖父がどこの人間なのかはよく知らないのです。あの……やはり、異教徒との戦争へ向かわれる方に、異教の地のものかもしれない本の知識で作られた薬をお渡しするのは、失礼になるでしょうか?」
「まさか。どこの国の知識によるものだろうが、薬はただの薬です。それに、その文字はアラビア語ではありません。そもそも、下級騎士として仕えているということは、ご祖父上は信徒なのでしょう? 何の問題もない、良い贈り物だと思いますよ」
「……言われてみれば、その通りですね。ありがとうございます!」
修道士様のお答えに安心して、私は更に以前ヨハン様と作った薬を取り出してお見せする。
「こちらはその本に載っていた、ピオニーとリコリスの根で作った薬です。痙攣を鎮め、筋肉や関節の痛み、腹痛などに効くそうです。戦場には丁度良いかと思いますが、いかがでしょう?」
「ピオニーとリコリスですか、不思議な組み合わせですね。リコリスは解毒作用があり、お腹の調子を整えるといいますから、腹痛に効くのはわかります。しかし、ピオニーは花を楽しみ、薬としては根をてんかんやめまいに用いるものです。てんかんの症状に痙攣があるので、関係はあるのかもしれませんが、この薬が関節や筋肉の痛みに効くというのは不思議です……」
「やはりやめた方がよいでしょうか?」
「いいえ、今持っている知識にないというだけで否定してしまうのはよくありません。この薬を実際に使ったことはありますか?」
「ありません……あ、でも、もしかしたら」
ヨハン様が、せっかく作ったお薬をそのまま放置するとは思えない。ケーターさんあたりが実験台にされている可能性は高そうだ。
「ヨハン様にお伺いしてみます。お使いになったことがあるかもしれません」
「そうですね。では一緒に、このお薬をベルンハルト様にお渡しする許可も頂いたほうがよいでしょう。薬草を自由に使う許可は得ていても、それはあくまで研究目的のお話。ヨハン様のご家族へお渡しするとなればまた別の話でしょうから」
私たちはお薬には手を付けず、そのまま部屋を後にした。階段を上がり、扉越しに声を掛ける。
「ヨハン様、ヘカテーでございます。ロベルト修道士様も一緒です。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「入れ」
ヨハン様は相変わらず眼の下のくまの濃いお顔で、書類に埋もれるようにして座っていらした。
「お忙しいところ申し訳ありません」
「大丈夫だ、大方片付いてきた。それで、用件は何だ?」
「祖父の本にあったお薬のことで2点ほどお伺いしたく……」
「……薬学か。俺は専門外だが」
オリーブの瞳が胡乱に、ロベルト修道士様に向く。すると、修道士様はそれに応えるようにお話しくださった。
「ヘカテーさんのご祖父上の本に載っていたお薬です。以前お二人で作られたというものを見せていただきました。ピオニーとリコリスの根でできているというものです」
「ほう、あの薬か」
その反応は、非難ではなく純粋な興味のように聞こえた。おそらく、修道士様が異邦の薬に抵抗がないことへのご興味だろう。
「これは痙攣を鎮め、関節痛や筋肉痛、腹痛に効くとのことですが、私の知識で言えるのは、リコリスが腹痛に効くということのみです。ピオニーはもしかすると痙攣に効くかもしれませんが、私の知識ではどちらも関節痛や筋肉痛には効能がありません。こちらのお薬は効能を試したことはおありでしょうか?」
「ある。俺の配下が筋肉痛に何度か使ったが、効いているようだったぞ」
ヨハン様はお答えくださったものの、隠密という言葉は用いられなかった。やはり修道士様を警戒していらっしゃるのだろうか。
「ありがとうございます。では、薬としての機能は問題なさそうですね」
「ああ。で、質問はふたつあるとのことだったが?」
ヨハン様の目つきが鋭さを増す。やはり、お忙しいと分かっていながら、わざわざ薬学の件で直接質問に来るとなれば、不審がられるのも仕方がない。私は、こちらの質問には自分で答えることにした。
「このお薬を、ベルンハルト様にお渡しできないかと思いまして……」
「兄上にか? ……そうか、確かにそれは戦場で役立つ薬だ」
ヨハン様の口角が、僅かに上がった。どことなく影を含んだ、寂しげな笑み。
「良い案だ。しかし、お前も俺も贈り主としては不適当だな。さて、どうしたものか」
> ペオニーは花を楽しみ、根をてんかんやめまいに用いるもの
中世ヨーロッパではそう信じられていましたが、現在はその効能は認められていないそうです。




