学ぶべきこと
振り返ると、サルを入れていたかごはするすると上がっていった。どうやらヨハン様が今の光景を見ていらしたようだ。私は急いで塔に戻った。
はしごを上がると、ヨハン様が廊下に佇んでいた。
「お待たせしてしまって申し訳ございません」
「いや、別に呼んではいない。ちょうど上から見えたんでな。会えたようで良かった」
「はい、子供が来るとは思っていなかったので驚きましたが」
「子供って、お前も同じ年くらいだろう?」
「見た感じ、彼はもっと年下かと思います。私は今年で15になりますが……」
「……は?」
「え?」
空気が固まった。ヨハン様は目も見開いて、視線を私の頭からつま先まで往復させる。
「そうだったのか。実年齢よりずいぶん下に見えるな」
「確かに、私は比較的小柄ですので、そう見えるのかもしれません」
「いや、背丈もそうだが、顔の感じがな……12歳くらいだと思っていたぞ」
「そんなに幼く見えておりましたか……」
私の顔立ちは結構特徴的だ。今までそれは単に『外国人の顔』と形容されることが多かったが、骨の主張が少なく丸みを帯びた輪郭など、子供っぽいと言われればそうかもしれない。しかし、そんなに小さく見られていたのは、私にとっても結構衝撃的だった。
「あ、いや、すまない。単に年を勘違いしていたから驚いただけで、お前の顔についてどうこう言うつもりはなかったんだ」
「もちろん承知しております。どうか謝らないでくださいませ」
「さて、書庫に行こうか。いくらか読んでおいてほしい本がある」
書庫に移動すると、ヨハン様は数冊の本を差し出してきた。連作物のようで、すべてギリシア語で書かれている。
「これは『体部の有用性』という本だ。といっても、ガレノスの著作の簡略版だがな。読んでおけ」
「申し訳ございません、私はギリシア語は断片的にしかわからないのですが」
「ああ、勉強しろという意味だ。少しでも知っている言語のほうが習得しやすいと思ったが、アラビア語の方が良かったか?」
ずいぶんと無茶ぶりをされたものだ。簡略版と言われても、1冊1冊はかなり分厚い。これがドイツ語だったとしても、読むのには結構時間がかかるだろう。考えるだけでくらくらとしてきた。
「……ギリシア語でお願いいたします」
「基礎的な文法は俺が教えてやる。単語は自力で覚えろ。何、どうせ時間はたっぷりあるんだ。無料で大学に通えたとでも思っておけばいい」
「ありがとうございます……尽力いたします……」
無料で大学に通える……そう言われてみればお得なことなのかもしれないが、今までで一番難易度の高い仕事に思えた。
そもそも私は花嫁修業としてご奉公に来たはずなのに、この塔に来てからメイドらしい仕事は掃除と配膳くらいしかしていない。まさか、ギリシア語を勉強して本を読めと言われるとは思っていなかった。
「商人の娘にそこまでの教養はいらない。そう思ったか?」
「え、いえ、そんな……」
この方は、時々心を読んでいるかのような発言をされる。
「今のところ、お前がいつまでここで働くのかはわからない。侍女のように一生の仕事とするか、そのうち街に戻るのかはな。だが、街に戻るとしても、人は『領主の城で働いていた』という事実しか見ないだろう。皆、お前がここにいる間何をしていたかまでは興味を持つまい」
「はい……」
「それに、女に教養があって悪いことなど何もない。俺がこの国で最大の賢者だと思った人物の一人は修道女だ。著作のラテン語は多少稚拙なところがあるが、薬草と鉱物についての研究は類を見ないものだった。つまり、環境さえ整えてやれば、素養を持つものは花開くということだ。だから俺に仕える以上は頭を使え。自分の価値を証明して見せろ」
過大な期待につぶされるような思いもありつつ、私は自分の中に意欲が沸き立ってくるのを感じていた。
それはきっと、紡がれた言葉が、厳しくもどこか暖かいものだったからだろう。
私にギリシア語を学ばせて何をさせたいのかまではわからない。しかし、自ら教える時間と手間をかけてでも学ばせる価値が私にあると、ヨハン様が判断しているという事実は、なぜか私にはどうしようもなく嬉しいことだったのだ。
> 子供が来るとは思っていなかったので驚きました
> 子供って、お前も同じ年くらいだろう?
ヘカテーの年齢を考えると、現代の感覚では不思議な表現ですが、中世ヨーロッパでは15歳くらいにはもう成人として扱われていたといいます。ちなみに、女性の平均結婚年齢は14~16歳だったそうです。