その血の祝福と呪いとを
自室で薬草学の本を読んでいると、上の方から、ガタン、という大きな音……そしてバタバタと何かたくさんのものが倒れる音が聞こえてきた。何か事故があったのだろうか。私は慌ててヨハン様のお部屋に駆け付ける。
「ヨハン様、何か大きな音がいたしましたが、大丈夫ですか!?」
「ヘカテーか……気にするな、問題ない」
「ですが……」
「……ああ、入ってもよいぞ」
恐る恐る扉を開けると、ぐちゃぐちゃに散らかった部屋。テーブルは倒れ、書類がそこかしこに散乱し、零れたインクが部分的に床を染めている。その真ん中で、ヨハン様が蹲っていらした。
「ヨハン様……? お怪我などはありませんか?」
「大丈夫だ……父上から連絡があってな。少し取り乱した」
青褪めたお顔のままその場を動かないヨハン様に代わり、散らばった書類を集めて適当にまとめる。配下を叱責するために物に当たって怒りを表現されることはあるが、おひとりで癇癪を起されるのは初めて見た。ご領主様からの連絡の内容を想像し、自然と暗い気持ちになる。
「やはり、間に合わなかったのですね。リッチュル辺境伯の戴冠は」
「それどころか、謀反の告発も失敗、辺境伯の帝位を否定すること叶わず、ディートリヒ3世は幽閉中だ」
「陛下が!? どうしてそんなことに!?」
「決議文の穴を突かれた。『前エーレンベルク公テオバルドの息子、エーレンベルク公ディートリヒを皇帝とする』……しかし、ディートリヒ3世は『前エーレンベルク公テオバルドの息子』ではなかった。つまり、選帝侯会議を通っていなかったのさ。会議も戴冠も経ていないのなら、どんなに周囲が認めていようともそれは僭称でしかない。そして、決議文に該当する人物が存在しないのなら、帝位は完全なる空位……教皇から戴冠した者がいるとなれば、当然そいつが座ることになる」
「息子ではなかった、というのは、陛下のご出生に秘密があったということでしょうか」
「実際どうだったかは別として、少なくとも公式にはそういうことになった。本物の父親は前エーレンベルク公に仕える執事であったらしい。異端であるボゴミル派の信徒である疑いがかけられ、本人は最初否定していたが、拷問の中で認めた。その時、何故か一緒に前エーレンベルク公夫人との過ちについても白状したということだ」
「異端審問の場でそれを言ったのですか……? 聞かれてもいないのに自分から……?」
「ああ。怪しいことこの上ないが、残念ながら彼は処刑を待たずして拷問死している。夫人は拷問を恐れて最初から過ちを認め、今は幽閉中だ。よって、ディートリヒ3世は皇帝僭称の廉で拘束された。」
「そんな……では、陛下の帝位が否定されてしまった以上、リッチュル辺境伯の謀反は成立せず、教皇庁に逆らうわけにもいかないからそのまま受け入れるしかないと……」
「そういうことだ。ディートリヒ3世の帝位を否定する主張をするとは思っていたが、その存在そのものを否定するとは、完全に盲点だった。まさかここまでの惨敗を喫するとはな」
説明しながら落ち着きを取り戻されたのか、ヨハン様はゆっくりと立ち上がり、倒れたテーブルを直してくださった。
「陛下は本当に婚外子だったのでしょうか……」
「さぁな。何しろこの話、辺境伯に都合が良すぎる。ボゴミル派は異端の中でも、我が国ではほとんど勢力を持たない、バルカン半島を中心に信仰される一派だ。しかもクロアチアにも残党がいると聞く……辺境伯の次の手は、件の執事の血筋にクロアチアを結び付けることと、その息子であるディートリヒ3世にもボゴミル派の疑いを掛けることだろう。そうすれば、異端者を皇帝として我が国に送り込んだと言い立てて、クロアチアに対して連合軍参加への切り札とすることができる」
「なんてひどい! 人の血筋をそんな風に利用するなんて……」
「しかし、親子関係を証明する手段など存在しない以上、神聖な場で口にしたという執事の告白を否定することはできないのさ。まったく、貴族の血筋とは利点も多いが、それ以上に呪いだな。執事はたしかキルシュ伯の家の出だった。異端を出したとあっては、伯は没落を免れまい。『エーレンベルク公』も選帝侯から外されるだろう……まぁ、一番迷惑するのは、一国丸ごと巻き込まれるクロアチアだが」
ヨハン様がそこでやっと言葉を切る。同時に、ぎゅっと噛み締められた唇。見れば端から血が出ている。
「ヨハン様、お口が……!」
「俺は、1年半もの間、一体何を見ていたんだ」
そのお声は震えていた。怒りと、口惜しさと、憎悪と……あらゆるどす黒い感情が乗った、哀しい声色。
「父上からこの役目を預かりながら、俺は、宮廷という戦場で父上に十分な武器を渡すことができなかった。父上の手腕なら、辺境伯と互角に渡り合えるはずだったというのに!」
「そんなことをおっしゃらないでください、ヨハン様は十分なお働きをしていらっしゃいます。本来なら、この塔から一歩も出ずにできるお仕事では……」
「そんなことは関係ない! 俺自身が外へ出られなくとも、俺には配下の隠密という目と手足があった。隠密は皆仕事をしていた。集めろといった情報はすべて集めてきた! なぜ辺境伯の動きに気づくのがこんなにも遅れたか? それは俺が下す調査命令が足りなかったからだ。なぜこの段になって辺境伯の横暴を許したか? それは俺が辺境伯の動きを読み誤り、エーレンベルク公について調べることを考え付かなかったからだ!」
「そんなにご自分を責めないでくださいませ! 辺境伯のような邪悪な人物の思考回路など、読めなくて当然でございます!」
「だったら! だったらどうして俺は今になって、奴の次の一手がわかる? 俺がそれに次ぐくらい邪悪だからか?」
「とんでもないことです! そんなつもりで言ったわけでは……!」
慌てて否定すると、ヨハン様は大きく息を吐いて、私の頭の上にそっと手を載せた。
「……わかっている。悪かったな、俺としたことが、お前に八つ当たりをしてしまった」
「いえ、それでお心が少しでも軽くなるなら、むしろ光栄なことでございます」
「情けない姿を見せた。リッチュル辺境伯、今はエーベルハルト1世と名乗っていたか? 奴は性質こそ邪悪だが、行動は合理的だ。俺の役目はあくまでイェーガーの家を守ること。簡単には倒せずとも、集中して取り組めば立ち回れないことはない……少し一人にしてくれ」
ヨハン様のお言葉を聞いて、たしかに貴族の血筋とは、祝福と同時に呪いを授かるものなのかもしれないと思った。




