掌に踊る
イェーガー方伯アルブレヒト視点です
政界とは、一滴の血も流すことなく争われる戦場である。そこに集う者たちとって、知恵とは鍛え上げた己の肉体、集めた情報は丹念に研いだ剣、練った策は頑丈な鎧。故に、その勝敗は議会という場において明らかになるだけで、テーブルに着く前に既に決していると言ってよい。いかに知恵に優れていようとも、剣と鎧なくしては、そもそも戦場に立つことなど不可能だ。
そして私は常に勝ってきた。これは当然の帰結である。何故なら、私には幾度もの戦場を切り抜け、来るべき戦場の過酷さを測る勘と、そこに合わせて装備をそろえる術があるからだ。
装備をそろえる術、それは自らが動くことではない。所詮は人間、一人で見える範囲も動ける範囲も限りがある。目や手足となって代わりに動く優秀な駒を多数持つことこそ、貴族にとって最も必要なことである。
私の駒は優秀だ。自らの命を張って私に有益な武器をもたらし、手を汚す事を厭わず相手の武器を潰す隠密衆。それを自在に使役して二手も三手も先の未来を見通し、戦況を有利に動かす息子ヨハン……我がイェーガーは、政界という名の戦場においては、傑物とうたわれた我が父をも超え、私の代で至高の時代に辿り着いたといえよう。
さて今日、私は最強の剣と鎧を持って議会に挑もうとしている。どれほど入念に準備をしても尚、足りると思えなかった。勝つことが当たり前だった私の戦歴において、ここまで勝敗の行方に不安を持つのは初めてのことだ。
「イェーガー方伯、此度のこと、俄かには信じられませんが……あなたの慧眼をもって事前に察知できたことで、彼奴の動きを阻止できることに賭けるしかありませんな」
「これはティッセン宮中伯、過分なお言葉を。しかし残念ながら私には、情報を掴むのが遅すぎたとしか思えません」
実名を挙げていないがために、ぎりぎり反応できる言葉。どこに誰の目があるかも知れぬ戦場で、不用意な発言をするこの未熟者は、優れた装備故に立ち回れているだけで、自らの持つ力は中の下だ。いつもなら多大に怪我をしない程度に軽く刃を交える簡単な敵でしかないのだが……今は共通の敵の前に手を組むために、ある程度守り導いてやる必要がある。面倒なことよ。
「そうですか。それにしても、刻限をこれだけ過ぎているのにまだやってこないとは……陛下のお越しもまだだから良いものの、気がかりです」
「運を天に任せるより、この先どう動くかを考えることが重要でしょう」
舌打ちしたい気持ちを抑え、然りとも否とも捉えられない言葉を選んだ。今この場にいない者は二人のみ。今度は人物が限定されてしまうため、内容に合わせた言葉を返すことはできない。しかも、「陛下のお越しもまだ」であることは全く良いことではない。そこに疑問を抱くところからこの議会での戦いは始まっているというのに……そのようなことだから、彼奴に取り込まれそうになるのだ。
準備運動とも言えぬ会話をひとしきり終えるころ、ようやく扉が開く。
「リッチュル辺境伯、エーベルハルト様のおなり!」
読み上げられる来訪者の名。それは待ちかねた人物のもの。彼は無言で歩みを進め、衣擦れの音だけが大広間に響く。その向かった先を見て……仮面を被りなれているはずの貴族たちの眉が、一斉に動く。
―― リッチュル辺境伯が、玉座に坐した。
「なぜそこに! 一体どういうおつもりですかな!?」
隣席のメルダース宮中伯が立ち上がって叫ぶ。ここまでの経緯を知っていれば想定の範囲内の行動だろうに、情報を手にしていなかったのか。あるいは、知っていても尚信じられなかったのか。いずれにせよ、同じ皇党派貴族であることが嘆かわしい。
「ふん、教皇庁の発表は、まだここまで届いていないのだな。私は昨日ローマより帰還した。既に教皇猊下による戴冠式を済ませている。よって、この玉座は私のものだ」
「そんなこと! 陛下が戻ってこられればそこに座られる! リッチュル辺境伯、即刻、席を移られよ!」
メルダース宮中伯の言葉を、辺境伯は鼻で笑った。
「陛下? 陛下とは私のことだ。今の私はリッチュル辺境伯ではない。帝国皇帝、エーベルハルト1世である!」
「エーベルハルト1世だと……?」
今度はホーネッカー宮中伯が小声を漏らし、顔を曇らせる。無理もない。「世」は後代に同じ名前が出た時、区別のために使われる号。初代がいきなり「1世」と名乗ることはない。すなわち、将来自らの名を引き継ぐ皇帝が現れるという宣言……帝位を世襲制にすると宣言したに等しい名である。私もホーネッカー宮中伯に目くばせをし、頷いた。仕方がない、予定より早いが、今が動くべき時だ。
「では、エーベルハルト1世を自称されるリッチュル辺境伯。私からも一言申し上げましょう。教皇猊下からの突然のご指名ならば、致し方ないでしょう。何を勘違いなさったのか、教皇庁に確認するまでのことです。しかし、そうではありませんね?」
「イェーガー方伯、何が言いたい?」
「ここ数か月のあなたの動きを調べさせていただきました。今回の戴冠、あなたの方から教皇庁に働きかけていらっしゃる。それも、一昨年から何度も却下されながら、聖地奪還戦争にクロアチアの協力をとり付けることを約束し、確実な勝利を条件にしてようやく得た承認です。たとえ戴冠がまだであろうと、選帝侯会議を通過して帝位につかれた現陛下の在位中に動いたこと、これは紛うことなき謀反。リッチュル辺境伯、我々はあなたを反逆罪で告発いたします。証拠は手許に揃っている。」
睨みつけながら通告したが、辺境伯は不遜な態度を崩さなかった。
「……なるほど。イェーガー方伯、宮廷きっての頭脳が、珍しく気づいておられなかったようだ」
「何!?」
「選帝侯会議を通過して帝位につかれた、というが……選帝侯会議を通過したのはディートリヒ3世ではない。決議文を思い出されよ」
「『前エーレンベルク公テオバルドの息子、エーレンベルク公ディートリヒを皇帝とする』……そうか、盲点だった」
勝敗は決した。皇帝という聖域が、我々に情報を揃えさせることを許さなかったのだ。議会は辺境伯の掌の上に踊っていたのだった。




