暗い春
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真っ暗な樽の中で、私はじっと息を潜めてお部屋の様子をうかがう。ヨハン様は何か必要なものがあるのか、ヤープと一緒に一旦お部屋を出られたようだ。扉が閉まると、部屋がしんと静まり返り、自分の呼吸や心音がやけに大きく感じる。次、クラウス様が入ってこられたなら、ここにいることは決して気づかれてはいけない。何かの拍子に声が漏れないだろうか、緊張で歯をがちがち鳴らしてしまわないだろうか……そんなことを考えて、私は自然と自分の手の甲を噛んでいた。
しばらくして戻ってくる足音。この音はヨハン様だ。安心するとともに、足音を覚えている自分に少し驚いた。普段は聞き分けなくてはいけない場面がないので足音など気にしていなかったが、無意識に覚えていたらしい。何か作業をされているのか、部屋の中を歩き回るヨハン様の足音で、自分の出す音は少し緩和された。
再び、別の足音が聞こえてくる。樽ごと転んでしまわないよう、自分の身体を抱きしめて震えを抑えた。
「失礼いたします。クラウスでございます。ベルの音がいたしましたが、何かご用命でしょうか」
「入れ」
いらしたのはやはりクラウス様ご本人だった。よく通る涼やかなお声。客観的に聞いて美声なのはわかるが、私にとってはトラウマでしかない。地階の天井を閉めたときに見せたあの笑顔が思い出され、一層身体の震えが大きくなる。
「ヨハン様、そちらに寝ているのは……」
「ん? ああ、引き取った」
「それは……あの時はお二人を引きはがすようなご提案をしてしまい、申し訳ございませんでした」
「気にするな、結局今こうして一緒にいる。それより、先ほどベルを鳴らしたのは緊急の用件だ。父上にこれを持っていけ。寝ていれば叩き起こしてでも必ず渡せ。良いな?」
「かしこまりました」
「悪いが、念のため隠密を2人付けた。万一お前が父上に渡す前にこの中身を見たり、渡さずに握りつぶすようなことがあれば、その場で喉笛を掻き切るよう命じてある」
「なるほど、言われてみれば人の気配があるような……? しかし、私はイェーガーのお家にこの身を捧げております。握りつぶすなど滅相もございません。ご領主様はまだお休みになられてはいないはずですので、必ず持ち帰り次第お渡しいたします。何卒ご安心召されますよう」
「ふん、では下がってよい」
クラウス様の礼をする気配がし、扉の開閉音……そして足音が遠のいていき、消えた。緊張が一気に解けた私は樽の中でへたり込む。力が入りすぎていたのか、手も足も痺れてしまって立てそうにない。
「ヘカテー、もう出てきて良いぞ」
「申し訳ありません、身体に力が入らず……」
「そういえばクラウスはお前の天敵だったな。無理もないか」
ヨハン様は近づいてきて樽のふたを開けると、手を貸して引っ張り上げてくださった。先ほどクラウス様にしていた隠密の話も、半分は私の気配を隠すためだろう。ヨハン様の重圧を理解し、気にかけているくせに、この期に及んでまだヨハン様に助けられてばかりの自分が情けない。
「ありがとうございます……」
ふと横を見ると、ベッドの上に私の服を着た骸骨が横たわっていた。
「お前の服をもらっておいて正解だった。クラウスにあれを直接見せられた以上、奴がお前の死を疑うことはもうあるまい」
「流石ですね、この緊急時にそんなことにまで気が付かれるなんて」
「ただのついでだ……さて、俺にできるのはいったんここまでだな。あとは父上がどこまで動けるかにかかっている。本当は、辺境伯が戴冠してしまう前に、宮廷へ呼び戻せればよいのだが……」
ヨハン様のお顔は一層翳りを濃くしている。
「辺境伯は、皇帝になるつもりなのでしょうか……」
「もちろん、別件で何かを企てている可能性はあるし、そうであると思いたい。しかし、これだけの状況証拠が揃った状態で、秘密裏にローマに向かったとあれば、最悪の可能性を考えざるを得んからな」
「辺境伯が戴冠してしまうと、どんな問題が起こるのですか?」
「問題はたくさんある。まぁ、考えられる一番大きなものは、現皇帝を擁する者と辺境伯を擁する者の間での争いが、都市を舞台とした内紛に発展することだ。内紛は国の体力を奪うばかりで利がない。ただでさえ帝国は領邦の集合体であり、国家としてのまとまりは弱いものだから、領邦ごとに分断され、帝国という概念が崩壊する可能性もある」
「内紛ですか……」
都市が戦場となることで最も恐ろしいのは、兵士同士の殺傷行為で人命が失われること以上に、その後に訪れる大規模な略奪で街が壊滅させられることである。奪われ、破壊され、焼き払われる。それは剣や槍による一瞬の死ではなく、飢えと絶望にあえいだのちにもたらされる緩慢な死だ。
今は10月。冬は戦争の季節ではないが、暗い春が迫りくることを思いながら越す冬はどれほど厳しいものだろう。
> 戦争の季節ではない
中世において、冬期の寒さにより敵味方ともに被害が大きくなるため、戦争は4〜9月(特に春)に行うのが暗黙の了解でした。




