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期待

 ヨハン様のおっしゃることはごもっともだが、私はジブリールさんのあまりの自由さと行動力に、少し頭がくらくらとしていた。



「ジブリールさんは今、ギリシアではなく、サラセンのどこかにいらっしゃるのですよね? こちらにいらっしゃるまで、どのくらいかかるものなのですか?」


「何とも言えんな……普通に考えれば、戦地を避けるために一旦北上して、偉大なる海(・・・・・)を抜け、キエフ経由で来ることになる。国をほとんど丸ごと2つ横切るような道だ。下手をすれば年単位の時間がかかるだろう……それから、手紙に書いてある『危険な旅』が戦地を突っ切るという意味ならもっと早いか、永遠に来ないかの大博打だ」


「ヨハン様が影響を受けるほど頭の良い方が、そんな強行突破をするでしょうか」


「しかねない性格だし、何か別の策を考えている可能性もある……ただ、突破する場合は最終的にキリロスの交易船に乗るから、事前に知らせが来るはずだ。手掛かりがこの手紙しかない以上、俺たちにできることは彼が一番早く着く可能性に合わせて準備を進めることぐらいだろうな」


「そんなに大変な準備が必要なのですね」



 異教徒であるジブリールさんを領主の居城で受け入れるためには、やはり何かと複雑な手続きが必要なのだろう。



「何か勘違いしているな、ヘカテー? この手紙には次に会う時には同封した本について語り合いたいとあった。つまり、ジブリールが来るまでにその本を読破し、内容を理解して、語り合える状態になっていなければならんということさ。当代最高と言って良い知の巨人を迎えるにあたって、それ以上のもてなし方はあるまい」



 そういってヨハン様が見せてきた分厚い本は、なんとアラビア語で書かれたものだった。アラビア語を母国語とし、ヨハン様が心酔するほどの聡明さをもったジブリールさんと、その本について語り合う……ヨハン様は楽しそうにしていらっしゃるが、常人の感覚では贈り物という名の嫌がらせにすら思える。



「安心しろ、この本は俺が訳していくつもりだ。お前は出来上がったものを帝国語で読むだけ(・・)でいい。」



 私もまた語学に打ち込む日々が始まるのかと思ったが、それは否定された。ギリシア語であればケーターさんも学んでいたが、流石にアラビア語となると周囲にできる人は誰もいないだろう。というか、この国全体でも一体何人が解するというのだろうか。当のヨハン様さえも、以前「アラビア語は難しい」とおっしゃっていたのに。


 しかし、ジブリールさんはきっと、生涯ヨハン様のお傍に仕えるつもりで国を出るのだ。それも、アフマドさんを通してヨハン様の近況を知っただけで、即座に命懸けの決断をして。ヨハン様としても、その想いに報いるためには、言葉の壁など切り崩していかなくてはならないということなのだろう。



「ありがとうございます……それにしても、ヨハン様はどうやってアラビア語を学ばれたのですか? 私には、異教徒の言葉など、何が何やら……」


「そんなもの、お前がギリシア語を学んだのと一緒さ。今のギリシア人は俺たちと同じ神を信ずる者たちだが、お前だってギリシア神話の存在くらい知っているだろう? 何を信じる者が用いるどんな言語であろうと、所詮は会話する手段に過ぎん。人間が理解できるようにできているのさ。それに、教会は異教徒、異教徒と(まく)し立てるが、サラセンの者たちが信じているのは俺たちと同じ神だ。ユダヤ人たちもそうだが」


「え、そうだったのですか!?」


「ああ。知らないからこそ難しいと思うだけで、きちんと知識を得れば何も恐ろしいことはない」



 衝撃的な事実だけを淡々と伝えて、廊下へと去っていく背中。語られる全てが私の知る世界を超越していて、置いてけぼりにされたような気持ちだった。


 扉を開けたままぼうっと見つめる私の視線に気づいたのか、ヨハン様は階段に足を掛けた所で振り返られた。



「言っておくが、俺がこの本を早く読みたいと思っているのは、別に義務感からではないぞ」



 少し紅潮した頬が吊り上がる。白く細長い指先が、徐に本の表紙を差した。



「ひとつだけアラビア語を教えてやろう。この文字は『ジブリール』と読むんだ」


「なんと、ジブリールさんのご著書ということですか!?」


「そういうことだ。さて、俺はしばらくこの本を読み解くことに注力しよう。その間、薬学の方は任せたぞ。そうこうするうちにもジブリールがやってくるかもしれん」



 足早に去っていくヨハン様を見送って、自室の扉を閉めると、私は自然と薬学の本に手が伸びた。私にできることなど微々たるものだろうが、ヨハン様は「任せた」とおっしゃった。ヨハン様がジブリールさんの期待に応えようとされている今、私はなんとしてもその期待に答えなくてはならない。


 そして、ジブリールさんがここに来たら、私もそのお話についていけるようになっていたら良い。義務感だけではなく、自分の興味と楽しみで学ぼうとしているのは、私も同じだ。ヨハン様をして、知の巨人と言わしめるほどの方。先ほどは圧倒されてしまうばかりだったが、「任せた」の一言は、ようやく私にその方と会うことを楽しみにさせてくれた。薬学であれ、解剖学であれ、その智慧の片鱗に触れられる機会を得られることは、どんな贈り物をもらうよりも贅沢なことに思えたのだ。

> 偉大なる海(・・・・・)

黒海のことです。中世には黒海という呼び名はまだなく、イタリア語でMare Maggiore、つまり偉大な海と書かれた文献があるそうなので、このように表現してみました。キエフはキエフ大公国、現在のウクライナのあたりになります。

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