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為したいこと、成せぬこと

「人間……ということは、まさか床屋を目指されているのですか?」



 医師ならまだわかる。彼らは大学で学んだ教養ある存在であり、高貴な人たちだ。しかし、ヨハン様が調べているのは病気の概念ではなく、身体の構造そのもの。それは病理を考える医師ではなく、もっと実践的な知識……医師に指示されるままに、現場で直接身体を触って切ったり血を抜いたりする床屋のための知識に思えた。床屋は不自由民の職業であり、ヨハン様のようなお方が目指されるものではない。



「それは無理だろうな。俺はこれでも方伯の息子だ。この城にやってきて俺に指図できる医師が何人いると思う?」



 返ってきた当然の答えに戸惑う私をしばらく眺めると、ヨハン様はふっと顔を緩め、頬杖をつかれた。



「とはいえ、解剖を行う目的としてはほぼ正解だ」


「目的、ですか」


「俺はな、自分自身が何者になるかは特にこだわらん。この塔で誰にも知られず一生を終えるならそれでも良いし、外面を考えて聖職者になれと言うなら、司祭になって説教くらいはしてやるつもりだ」



 まぁ、悪魔と呼ばれた男に説教される側はたまったものではないだろうが、とヨハン様は笑いながら続けられる。



「だが、この国の医学は遅れている。それまでの間の時間を自由にできるのなら、その遅れを取り戻すために使いたいのだ。手を動かすのは、別に俺である必要はない。市井から無能な医師が消え、まともな医師が増えればそれで良いのさ」


「無能な医師……この国の医学は、それほど遅れているのですか」


「ああ。呆れるほどに」



 オリーブの瞳は先ほどまでの輝きをひそめ、薄曇りの様相でどこか遠くを見つめている。



「なにしろ姉上は、医師の無知によって殺されたぐらいだ」


「え……」


「元々は、俺よりも元気なぐらいの人だったんだ。何かにつけていつもはしゃいでいて、何が面白いのかわからないくらいのことでよく笑って。それが、ある時から、よくめまいを起こすようになってな」



 お姉様とは、亡くなられたゾフィー様のことだろう。大変仲良しでいらしたが、ヨハン様が10歳の時に亡くなられたと聞いている。重いご病気で、医師が手を尽くしても治らなかったと。



「医師が来るたびに、姉上の容体は悪くなっていった。最初はめまいだけだったはずなのに、手が震え、いつも呼吸が荒く、立っていることもままならなず……それでも医師は、体に毒がたまっているとか言って、血を抜くことしかしなかったのだ」


「他の医師にも来てもらうことは……」


「この城で姉上の治療を任されるのだぞ。そいつより上がどこにいる」


「申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」


「いや、気にするな。おそらく皆が思っていたことだ」



 ヨハン様は尚も話を続けられる。テーブルの上の食事はすっかり冷めきっていた。



「3月ほど経った頃には、姉上は別人のようなありさまだった。がりがりに痩せて、眼だけがぎょろぎょろと異様に光っていて……それでも、心配するなと俺を気遣うんだ。治ったらまた遊びに行こうとか、お祝いの宴を開いてほしいとか、無理に明るい話題ばかり振ってきた」



 コンコンという音に手元を見やると、細長い指先が苛立ち紛れにテーブル叩いている。



「最後にあった時には、熱が高く、咳き込んで上手くしゃべれない状態だったな。白かった肌はところどころ赤黒く変色し、瀉血(しゃけつ)の傷口を巻く布が緑色の液体で濡れていた。たまらず、何かできることはないのかと問うたら、きれいじゃなくなっちゃって恥ずかしいから、治るまで会いに来ないで欲しいと言われてしまったよ」


「そんな……」


「姉上が死んだ後だ、俺が偶然東方から来た学者に会ったのは。彼が言うには、最初の症状は姉上の持病だが、最後に会った時の症状は治療の失敗によるものだということだった。そもそも、人間の身体を碌に知らないで診断や治療ができるのがおかしい。例えばこれが料理だったら、材料や料理名を知らずに調理方法がわかるか? 本来なら、患者の症状を詳しく観察することで判断材料を得、正常な人間の姿を知っていてこそ治療法がわかる。当時の俺に細かい説明は理解できなかったが、彼の国とこの国の医学が雲泥の差であることは理解できた」


「……心中、お察しいたします」



 苦し紛れにでたありきたりすぎる私の言葉を耳にすると、ヨハン様はわざとらしく伸びをして、話を切り上げた。



「少し喋りすぎたな、俺も存外に人恋しかったのかもしれん。もう下がってよいぞ。残りのことは明日やろう」

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― 新着の感想 ―
[一言] 床屋の廻る看板は動脈と静脈を表しているということを思い出しましたぞ!
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