花と棘と
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お借りした薬学の本の数々は、どれもどちらかというと薬草学というべきものだった。ヨハン様はこれらを学術書よりも図録に近く、単にその内容を覚えるだけなのは性に合わないとおっしゃったが、私には逆にその方が適性があるように感じる。畑はもちろん森も藪も見られない塔の中にあって、愛らしい草花の図は私の心を潤してくれるし、知らずに出くわしたなら雑草としか思えないような小さな草に、人の病や傷を癒す力があることは神秘的な事実だった。実際、神秘性を感じるのは人の常なのか、薬草にはギリシア神話の神々を由来に持っていたり、纏わる伝説を持っていたりするものが多い。ちなみに、女神ヘカテーが司るのは猛毒の花、トリカブトだそうだ。ヨハン様は悪い女神ではないといっていたが、やはり世の中では死の女神。ギリシアの神々は役割がはっきりしている。
修道女や民間の薬屋など、薬草の知識が豊富な女性はよく「賢い女」と呼ばれる。彼女たちは薬草園で草花を育てたり、時には森に生えるものを採取して、病気に合わせて人に渡したり、お産の手伝いをしたりする。当然私もその存在そのものは知っていたが、商人の娘として生きていたころは、自分がそれを目指そうとするとは思っていなかった。
そして、実際に学んでみようとすると、「賢い」とされる理由がよく分かった。何しろ、薬草というものは似たものが非常に多く、姿がどんなに似ていても種類が異なれば薬効が異なるのだ。例えば、ヨモギとニガヨモギは姿がよく似ている。ヨモギはお産を軽くするなどの女性に効く薬になるが、ニガヨモギは吐き気がするときに用いたり、乾かして防虫剤にしたりする。そして恐ろしいことに、この二つはどちらもトリカブトとも姿が似ているので、くれぐれも間違えないようにしなくてはいけない。つまり、自分で採取した薬草を他人に薬として渡すには、自分の知識に対する絶大な自信、そして度胸が必要だ。
さらに、薬草は症状に合わせて処方するだけでなく、量の調整にも気を配らなければいけない。ヨモギはお産を軽くする半面、処方する時期を間違えれば堕胎薬にもなる。吐き気に効くニガヨモギは、量が多いと泡を吹いて倒れてしまう。同じ症状を持つ者を体質で分けているのは祖父の本のみだったが、美しい花が棘を持つように、薬は毒と紙一重なのだ。
しかし、こうした緊張感は、本を読み、絵を観察する際の集中力を否応なく高めてくれる。私が直接森へ採取に行くことはないだろうが、ヨハン様は学ぶことを分担するとおっしゃった。つまり、ヨハン様が私の知識をもとに、薬を作ったり、それを世に広めることもありうるということ。私も世の賢い女たちのように、あらゆる薬草の細かな特徴とその差異を覚えていなくてはいけない。
おかげで、私は薬草について学びながら、ギリシア語を学んでいた時とはまた違う楽しみを覚えていた。今思うと、以前ギリシア語を学んでいた、つまりガレノスの本を必死で訳していた時は、縋るような気持ちが強かったのだ。自分は何者なのか教えてほしい、ヨハン様にその壮大な夢の一端を見せてほしい……それはどちらも、一見前向きなようでいて、自己の存在に対する不安と、存在する事に対して資格を求める自罰的な強迫観念を含んでいた。今は、学ぶことに対する誇りがある。それがヨハン様の代わりに学ぶという役割故なのか、薬学が自分で見つけ自分の選んだ学問であるからなのかはわからないが。
頭に入ったかどうかは別として、帝国語の本を一通り読み終えた頃、その便りはやってきた。
「ヘカテー、面白いものが届いたぞ」
私の部屋を訪ねてきたヨハン様は、そういって1通の手紙を渡してきた。ドイツ語の、整った綺麗な文字で書かれたその差出人は……
「ジブリールさんから、ですか!? ずいぶん早かったですね!」
「ああ、読んでみろ。彼の人となりがすぐわかる」
広げてみると、中身はやはり帝国語。きちんと整った言葉で書かれている。
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親愛なるヨハン=アルブレヒト様
キリロスさんからアフマドさんを通して、あなたの近況を伺いました。以前お会いしたのは一度だけ、それも10年近く前になりますね。しかし、私はあの日に出会った聡明な少年のことを、一度も忘れたことはありませんでした。もしあなたが君主のご子息という立場でなかったなら、そのまま連れ帰って自分のもとで育て、世界一の学者にしてみたいと思ったほどです。私の母国にも、あなたほど深く私の学問に理解を示してくれた方はいませんでした。
しかし、そんなあなたが地位を持って生まれてきたということは、これも神の采配なのでしょう。このことはあなたがお住まいになる国、いや社会全体にとっては幸運なことなのでしょうが、本人にとっては不幸でもあると思います。そしてその不幸に心を蝕まれることがあれば、社会にとっての幸運も不幸に転じるだろう……そんなことを思いながら、あなたのことをずっと心配してもいたのです。あなたが闇に沈むことのないように、周囲の人間には何よりもその心の支えであってほしいと願いますが、過ぎた聡明さゆえの孤独を埋められる者はなかなかいないのではないでしょうか。
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そこまで読んで、少し顔が引き攣った。丁寧な言葉で書かれてはいるが、社会を不幸にするかもしれないだなんて失礼極まりないことを、本人に向かって、しかも10年近く会っていなかった相手に、普通突然言うだろうか。
「ジブリールさんは、変わった方ですね……」
思わず私がこぼすと、ヨハン様はくっくっと押し殺すように笑った。
「そうだな。だが、さらに驚くのはその先だぞ」
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ですので、アフマドさんから、あなたがまだ私のことを覚えていて、しかも私の影響で医学を学ばれていると伺った際には、私は喜びに打ち震えました。その溢れる才覚故に幽閉の憂き目にあい、大変なご苦労をされながらも、あなたは闇に沈むことなく光であり続けた。なんと素晴らしいことでしょう。
叶うなら、私にも傍であなたを支えさせてはいただけませんか。私の智慧は僅かなものであり、あなたの孤独を埋めるに足るものではないかもしれませんが、あなたが医学に興味をお持ちなら、知識に対する飢えを多少満たす程度の働きはできると思います。
危険な旅にはなりますが、私は既に一度亡命した身。今住む場所も祖国ではない以上、未練はありません。なんとかしてそちらに向かうつもりです。
さて、ささやかな贈り物を同封させていただきました。次にお会いした時には、是非その本について語り合いましょう。
あなたに神の御恵みがありますように。
ジブリールより
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後半を読んで絶句した。読み終えた私を見て、ヨハン様は今度こそ声をあげて笑っている。目尻には涙まで浮かんでいた。
「どうだ、面白かっただろう? こちらに来るんだと。異教徒の身が、異教徒との戦争のさなか!」
「面白いといいますか……無茶苦茶ではありませんか? ヨハン様の意志を確かめもせず勝手に決断して……」
「無茶苦茶だが合理的だ。ジブリールは自分の価値をよく理解しているのさ。医学だけでなく、政局の切り札にすらなるあの頭脳、俺が断わるわけはない。それに、交戦中に何度も手紙を出せば要らぬ疑いを掛けられる。1通の手紙で済ませて動き出したほうがかえって安全だ」
どうやら新しく仲間に加わるという稀代の賢者も、棘を持つ花の類であるようだった。




