東方のさらに東
どう応えてよいかわからずにいる私に代わり、ヨハン様が口を開く。
「はずれだ。しかし、これは面白い返答だな。実はヘカテーはお前と同じギリシアの血をひいている。おそらく今の質問は、お前の知識を試したのではなく、ギリシア人の眼から見て自分がギリシア人に見えるかを問いたかったのだろう」
「さようでございましたか、これは大変失礼いたしました。言われてみれば、この黒髪の色の深さは我々と同じ形質。しかし……恐れながら、貴国と我が国の血だけではないのでは?」
「おお、よくわかるな。ヘカテーの血は帝国が半分、ギリシアが四分の一、もう四分の一はよくわかっていない。そして、今日はお前にそのわからない四分の一に纏わる知識について、見解を聞いてみたかったのさ」
ヨハン様は祖父の本を取り出し、キリロスさんに見せた。
「キリロス、この本の文字に見覚えはないか? もしくは、この紙やインクについてでもよいのだが」
「その本は……少し手に取って、直接拝見しても?」
目配せをされて私が頷くと、ヨハン様はキリロスさんに本を手渡した。キリロスさんはパラパラと頁をめくりながら、濃い睫毛に縁取られた眼を鋭く光らせている。
「文字は読めませんが、ギリシア語で書き込みがある……これは薬の本ですな。この紙はおそらくサラセンの方面のものかと存じます。麻などの植物から紙を作る技術がございますので」
「やはりそうか!」
「私はアラビア語もペルシア語もできませんが、眼にしたことはあります。ここに書かれている文字は縦書きで、言葉が異なることから、本自体はペルシアよりも更に東から渡ってきたものではないかと……」
「ペルシアよりも更に東、か。さすがはキリロスだ。実は、俺たちは今、この本を読み解き、薬の再現をしようとしてる。我が国にはない知識で溢れているから、活用することで医療の発展の手掛かりになると思っていてな」
「なるほど、そういうことでしたか。ただ……この本の扱いは注意なさったほうがよいでしょうな。書かれている文字はアラビア語ではございませんが、この紙も、書かれている知識も、イスラームの者たちが使うものと特徴が一致しています。ペルシアよりもさらに東とは申し上げましたが、間にイスラームの国を挟んでいる以上、異教徒の国であることにほぼ間違いはありません。今は異教徒との戦いのさなかです。表に出れば要らぬ疑いを掛けられかねませんよ」
キリロスさんは険しい顔だ。その口ぶりからして、異教徒に対する嫌悪感はさほどなさそうなので、真剣にヨハン様を心配しているのだろう。
「そうだな、さすがにこれを表に出すつもりはない。だが、これから戦争が激化し、負傷者が増えることを考えると、特に傷薬の類は作れるようにしておきたいのさ。お前がこの本の知識に思い当たることがあるようだったら、薬草の輸入を頼もうと思ったのだが」
「薬草でございますか……私は薬学には通じておりませんが、イスラームの医学や薬学は、元を辿るとギリシアの医学を発展させたものといいます。この本に載っているもので、調達できるものもあるかもしれません。薬草を扱う商人には伝手がありますので、見つかれば次回お伺いするときに持ってこられるようにいたしましょう」
「それは助かる!」
「私からも是非お願いしたいです!」
願ってもない話に、ヨハン様も私も頬が緩んだ。キリロスさんに薬学の知識がないということは、ヨハン様が気にされていた『なぜ効くのか』という点については保留にせざるを得ないだろうが、材料が足りずに作れずにいた薬を作れるようになるだけでも大きな進展だ。
「ちなみに、ご所望の薬草のリストはございますか? それとも私の方でこの本から傷薬に使うものを選んだほうがよろしいでしょうか」
「リストは作ってある。後で渡そう」
「それから……もしよろしければ、アフマドに連絡をとってみましょうか?」
「なんだと!?」
その名を聞いてヨハン様が驚愕の声を上げた。アフマドさん、私には初めて聞く名前だ。
「あの……アフマドさんとは一体どなたでしょうか?」
「サラセンの貿易商だ。キリロスの紹介で1度この城へやってきて、その時一緒にジブリールを連れてきていたのさ」
「そうだったのですね」
ヨハン様がキリロスさんに会いたがっていたのは、ジブリールさんに連絡を取れるのではないかという希望もあってのことだった。しかし、今サラセン方面に連絡をとるのは危険が伴う。こちらからそれなりの対価を払ってお願いすべきところを、キリロスさんの方から申し出られたとあっては、当然の驚きだった。
「アフマドは貿易商です。昔から何度もやり取りをしていますから、やり方を気を付ければ眼をつけられることもないでしょう。彼ならイスラームの薬学で使うものを扱っているかもしれませんし、もしかするとジブリールとも連絡が取れるかもしれません。私が最後に聞いた話では、ジブリールは再びアフマドのもとに身を寄せていましたから」
「キリロス、それは本当に有難い申し出だが……俺の力では大した褒美は出せんぞ?」
「いえいえ、そんなことはございません」
その返答は否定形だが、褒美を望むことを否定するものではない。キリロスさんの顔には、屈託のない、そしてとても商人らしい笑みが浮かんでいた。
「実は、ついに倅が商売を手伝いはじめましてな。少なくとも次の代まで、我々をお抱えにすると、ヨハン様の一筆をいただけましたら……」
少なくとも次の代まで。つまり、アフマドさんの代は完全に安泰ということだ。ヨハン様にその許可を出す権限があるかどうかはわからないが、例えそうでなかったとしても効果はある。いざという時その一筆を出されてしまえば、よっぽどのことがない限り、イェーガーの家は「約束を違えた」という噂を流されないために守らざるを得ないからだ。もちろん、それによって損失が出たときは、勝手に許可を出したヨハン様の責任となる。
「ははは、考えたものだな! わかった。俺はお前を信頼している。一筆は用意してやるから、アフマドへの連絡、頼んだぞ」
サラセンとはムスリム及びイスラーム文化圏のことです。この小説ではヨーロッパの側から描いているためこの呼称を用います。




