飴と鞭
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ヨハン様の座るテーブルの前にシュピネさん、ラッテさん、ヤープが跪き、私はその隣に立って控えている。それ自体はよくある光景だった……私たちとテーブルの間に、縄でぐるぐる巻きに縛られたオイレさんが転がされている事以外は。
今、ヨハン様はかつてないほどにご立腹だ。じりじりと放たれる怒りの波動で、肌が焼け付きそうなほどである。この状況になって四半刻ほど経っているだろうが、ヨハン様は上がる呼吸を抑えるようにして床に転がるオイレさんを見つめているのみ。私たちは冷や汗をかきながら、その唇から何か言葉が紡がれるのをひたすら待っていた。
「あ……あの……この度は本当に申し訳ございませ」
「黙れ」
沈黙に耐えかねたらしいオイレさんが口を開くが、ヨハン様は謝罪を許すつもりはないようだ。
「なぁオイレ、お前は俺に仕えているという自覚があるのか? 隠密の持つ時間も命も、本人ではなく主のものだ。それを勝手に使おうとするとは、大した度胸だな。いつの間にそんな偉くなっていたんだ? え?」
ヨハン様はドゴン、とテーブルを蹴り飛ばし、揺らいだ台座から板が外れてはオイレさんの顔のすぐ横に倒れた。全員の肩がびくりと震える。
「確実に助かる道を考えていたならまだ許す。だが、あんな中途半端な遺言を残しおって……確かにお前は隠密の中でも比較的自由に行動させているが、俺はそこまで勝手な真似を許可した記憶はないんだがな」
「はい……反省しております……」
お二人のやり取りに口を挟める者は誰もいない。結果としてオイレさんはこうして生きているわけだが、そこまでの経緯を聞く限り、助かる前提の計画というよりただの奇跡としか思えなかったからだ。
命に別条がない程度の大怪我をしたオイレさんが、この塔まで戻ってきたのは早朝のこと。もともと公の場では常に小太りに変装しており、巧みな奇術でも有名だったオイレさんは、わざと変装した状態で捕まって、市庁舎の穴牢獄の中でその変装を解いた。そして尋問を担当したウリさんが『話に聞いていた容姿とずいぶん違うし、本人も身代わりをやらされたといっているが、この男は本当に捕まえたオイレなのか』と問い合わせたことで『歯抜きのオイレは眼を離したすきに別人を身代わりにして逃げた』と判断され、釈放されたということだった。
……つまり、尋問を担当したのがウリさんでなかったら、オイレさんは死んでいた。更に言うと、街で一番人気の歯抜き師だったオイレさんはいまだに手配中であり、ここにいるオイレさんも『オイレの身代わりをやらされた人』として、なんらかの関係があるのではないかという疑いまでは完全に解けていない状態である。ヨハン様が激昂するのも当然だ。
「一応聞くが、何に対しての反省だ?」
オイレさんの弱弱しい受け答えに、ヨハン様の瞳がギラリと光る。
「隠密として、詰めが甘かったなと」
「ほう?」
「確かに中途半端でした。諜報担当は私のほかにもおりますし、『愛の妙薬』はもう私以外でも売れるだろうと思い楽観視していましたが、自分が死んだ場合の指示を明確に残しておくべきでし……」
「ついさっき言ったことをもう忘れたのか、この戯けが! お前に自分の命を好き勝手に使う権利があると思うな、俺が死ねと命じぬ限り死ぬことは許さん!」
ドゴン、と倒れたテーブルの板が再び蹴り飛ばされる。今度はそれがオイレさんの肩あたりに当たり、うぐ、とうめき声が漏れた。
「今回は釈放されたから良かったものの、あれだけの大罪、逃したとあれば教会や参事会の沽券に関わる。別人でも構わず処刑する可能性もあったのだぞ」
「いえ……私は結構有名ですので、これだけ姿が違えば処刑場で観衆が気づきます」
「連中の高慢と理不尽さを甘く見るな。力を持たぬ観衆の疑問など意に介さず、己が正しいと言い張ることはよくある。今ここにいることがどれだけの奇跡かわからんか」
「は、はひぃ……」
「腑抜け声を出すな気色悪い。おい、シュピネ」
唐突に名前を呼ばれたシュピネさんははじかれたように顔を上げる。ヨハン様は額に青筋を立てたまま、意地悪そうな笑顔を浮かべている。
「はい、何かご用命でしょうか」
「今回の件で一番の働きをしたのはお前だ。こいつの顔の痣が消えるまで、3週間程度か? それまで、大っぴらに表に出さなければ、雑用なり用心棒なり、好きにこき使っていいぞ。何なら財布にしても構わん」
「なんと、それはありがとうございます!」
シュピネさんの顔がぱぁっと明るくなり、オイレさんの顔がさぁっと青くなった。オイレさんは優秀な人だ。3週間も自由に使えるとなれば、シュピネさんにとってはかなりのご褒美だろう。オイレさんにとっては……どうなんだろうか。
「まぁ、経緯はわかった。事後の処理は考えておく。隠密は皆下がれ」
「は!」
オイレさんの縄は解かれないまま、シュピネさんに引っ立てられて去っていった。『隠密は』とのことなので、私はそのまま控えて待つ。
皆さんが出ていったのを見届けると、ヨハン様は大きくため息をつきながら、先ほどご自分で蹴り倒したテーブルの板を元に戻された。
「まったく、結果良ければ云々と言うが、今後もこんな奴らを従えていくことを思うと頭が痛い」
「オイレさんは隠密になってどのくらい経つのですか?」
「俺が父上に隠密を移譲されてから比較的すぐに雇ったから、7~8年といったところか。あいつが問題を起こしたのはこれが初めてだが」
「そんなに昔から……ヨハン様は凄いですね。年上の方々をしっかりとまとめ上げていらして」
「そんなことはない。最初の頃は特に、舐められないようにするだけで精一杯だった。今も偶に、こうやって大袈裟に鞭を振るうようにしているが、飴と鞭の配分には苦労している」
そういわれて納得がいった。ヨハン様の貴族とは思えないような粗暴な言動や、時折見せる極端な圧力は、百戦錬磨の隠密の皆さんの上に立つために身に着けた演技が常習化したものなのだろう。
「皆様のヨハン様に対する忠誠心の強さは見ていればわかります。オイレさんだって、命懸けでヨハン様のお役に立とうと思ってしまったが故の行動でしたし」
「それはそうなんだが……隠密はあくまでイェーガーのために働くもの。俺が今まで職権を乱用しすぎていたのも悪いんだが、動機が良ければ何をしても良いというものではないからな」
それでも、疲れたように笑うヨハン様の表情からは、何よりもホッとした雰囲気が見て取れた。
「オイレさんが帰ってこられて良かったです」
「ああ、本当にな」
この方は、なんだかんだ言って自分の配下を愛している。わざわざ私をこの部屋に残したのも、単純にオイレさんの生還を喜ぶ時間が欲しかったのだろう。立場上できなくても、本当は『よくぞ帰還した』とお褒めの言葉をかけたかったに違いない。




