それぞれの献身
どう足掻いても、オイレさんの助かる道が見いだせない。あんなにも優しく頼りになる人が、初めてお会いした時からずっと私を助けてくれた人が、無実の罪で処刑にされてしまうというのか。そうなる未来を予見しておきながら、ヨハン様の医学を邪魔しまいとそれを告げず、ひとりで不名誉に命を終えるというのか。
いつも陽気に笑うオイレさんの顔が脳裏に浮かぶ。何かに失敗するなんてことが、想像できない人だ。だからこそ、もしあの人が自分の意志で殺されようとしているのなら、それも成功してしまいそうで恐ろしい。拷問、車裂き、火炙り……これからどんな苦難の時が彼を襲うのかと思うと、恐怖で頭がどうにかなりそうだった。
絶望に言葉を失う私たちに向かって、ヨハン様が静かに声をかける。
「安心しろ。つまり、実在させてしまえば良いのさ。俺が名乗り出よう。ドゥルカマーラは俺の筆名だと、一言そういえば良い」
「しかし、それでは結局、教会と事を構えることになってしまうのではないですか? オイレさんが『悪魔の書物』を配布した都の罪状は、既に街中が知るところなのですよね? ご領主様がそんなこと、お許しになるのでしょうか……」
「そうだな、父上は許すまいよ」
皆が怪訝な顔で見つめると、ヨハン様はふん、と鼻を鳴らして意地の悪い微笑みを浮かべた。
「だが簡単なことだ。今回のことは父上には伝えず、俺が勝手に動けばいい。いよいよ俺も『塔の悪魔』の本領発揮だな。皇党派の柱たるイェーガー方伯が騒ぎを起こした自らの息子を廃嫡し、修道院に放り込めば、教会の権威への尊重を公に表明できる。一石二鳥じゃないか」
「そんな、廃嫡だなんて!」
「心配するな。どんなに大きな声が上がろうと、俺は流石に殺せん。イェーガーの力もたかが次男を失った程度で揺らぐものではないさ。まぁ、修道院に入ったら工作の仕事はできなくなるだろうから、そこはまた父上に自ら頑張ってもらうほかないが……なに、それもそろそろ方伯の仕事を兄上に引き継いでいけばよいだけのこと」
「医学の道は、どうなさるのですか……」
「そんなもの、所詮は暇を持て余した貴族の遊びだ。ここまで続けられただけでも十分だろう。もともと隠密の手を借りてまでやるべきことではなかった。配下の命はイェーガーの家の為にある。工作に命を賭けさせるなら良いが、遊びで失うなど言語道断だ」
あっさりと長年の夢を切り捨てるヨハン様に、私は何も言えない。今回のことはオイレさんの命がかかっているのだ。代案を提示できなければ、命より学問を優先しろと進言するのと同じことになってしまう。
「さて、そうと決まれば早く動かなければな。ラッテ、俺は今から早急に文書を作成する。ビョルンを呼んで来い。仕上がり次第、市庁舎に届けさせよう」
「……仰せのままに」
ラッテさんは命令を受けるなり、部屋から去っていった。市庁舎に公式に出向くとなれば、それなりの身分が必要だが、ラッテさんは表向き只の商人で、イェーガー方伯とは関係がない。ビョルンという聞きなれない名前の方は、おそらく侍従の一人なのだろう。
これで、オイレさんは助かる。悪魔の書物によって民衆を扇動したなんて言いがかりは、ドゥルカマーラが異教徒であるという前提の上に成り立っている。その正体が領主の息子というこれ以上ないほど身元を保証された人物であることが判明すれば通用しなくなるはずだ。
しかし、それでも思わずにはいられない。他に方法はないのだろうかと。
冊子を作るとき、オイレさんは言っていたのだ。初めてヨハン様とお会いした時、夜通し医学を語ったと。そして、今もヨハン様の医学に触れられている間だけ、世界が崩れ去る恐怖から救われているのだと。
そう、あの人は確実に、ヨハン様の研究を手伝うことを目的に隠密をしている。街で人気を集める姿を見れば、生活のために危険を冒す必要性も、身を隠さなくてはいけないような過去もないことは明らかだ。ただ、医学の道に触れたい、ヨハン様の研究に役に立ちたいという純粋な気持ちから、この大変なお仕事を選んだのだと思う。
……そして、そんな彼は、自分の命と引き換えてでも、ヨハン様の研究の成果を世に出すことを望んだ。もし命懸けで世に出そうとしていることがばれれば、その手を止めてしまうだろうと、お得意の演技でヨハン様を煙に巻いてまで。
ヨハン様がドゥルカマーラであるということを公表すれば、オイレさんが望んだ医学の発展はここで途絶えてしまう。もし尋問がすでに始まっているなら、完全に怪我し損である。
私は必死に頭を回転させて、なんとか他の道がないのかを考える。医学の研究はヨハン様とオイレさん、お二人共の夢だ。オイレさんの命を助けるだけでなく、お二人が医学をあきらめずに済むような方法はないのだろうか。
―― それから、ヨハン様の発案であっても、それがヨハン様のためではなく、誰かほかの人のための命令であれば、やっぱり教えて。
そんな約束もしていた。今、まさしくほかの人のための命令が出されているが、獄中のオイレさん本人に教えに行くことはできない。
考えるうちに、ふとわいてきた疑問があった。ヤープは今回の件について、何も聞いていないといっていた。しかし、本当に尋問を担当しているのは他の刑吏なのだろうか? 教会の権威を決定づけるための大事件の尋問を、一番人気がある……つまり最も信頼のある刑吏でなくて、誰にやらせるだろうか。
その疑問に一筋の光明を見出し、私は無意識に口を開いていた。
「ヨハン様、シュピネさんに連絡をとることは可能でしょうか?」




