余話:ある医師の義憤
レーレハウゼンに住む、ある医師の視点です。
街が活気づくのは良いことだ。経済が回り、税収が増え、不満を持たなければ民は従順になる。その点で、このレーレハウゼンという街は近年まれにみる良い状態にあるといえるだろう。もともとイェーガー方伯領自体が栄えた邦だが、現方伯の統治は目覚ましい発展を遂げた先代の統治のさらに上を行くと私は思っている。レーレハウゼンの賑やかさは、その豊かさの象徴だ。
故に、昨今庶民の間で「愛の妙薬」なるものが流行りだしたと聞いた時も、私は新たな物産が増えたものだと喜ばしく思った。名前は「薬」というが要は化粧品だ。これといって健康被害が耳に入ってこないところを見ると質も良いらしい。もちろん、化粧を悪しきものとみなす教会の見解を考えると表向き賛同することはできないが、愚か者たちが「愛」という言葉に踊らされて経済を回すこと自体は悪いことではない。欲とは抑圧しきれぬもの、薬という言い訳で発散できるならそれに越したことはないのだから。
しかし、そんなことを言っていられたのは、私が薬の話を耳にしてからほんの数か月の話だった。先日、同じ医師を生業とする友人が私の家を訪ねてきた折、その『医師』の話を聞いたのだ。
「なぁ、ドゥルカマーラという医師を知っているか?」
「いいや、私は聞いたことがないが……」
「ガエターノ・ドゥルカマーラ。私も最近耳にしたんだが、例の『愛の妙薬』を発明した医師だそうだ。そして、今度はその著書が床屋の間で流行っている」
「医師の著書が床屋の間でだと? 床屋がラテン語を読むのか?」
「それが、どうやらその著書とやらはラテン語ではなく、ドイツ語で書かれているようなんだ」
なんとも不思議な話だった。医師の著書といったら医学書に違いないが、床屋は医師の指示通りに手を動かすだけで医学書など読まないものだし、医学書はラテン語で書くのが当たり前だ。わざわざドイツ語で書かれた医学書とは、まるで最初から床屋に読ませるために書いたかのようである。
「君は一体どこでそんな話を聞いたんだ?」
「この間の診療で、施術に当たった床屋が嬉々として患者に話していたのさ。まさか医学書を読む床屋がいるとは思わなかったから、捕まえて詳細を聞いてみたところ、そういう話だったというわけだ。今や連中は『ドゥルカマーラ学派』という派閥まで作って、大学もどきの研究会まで開いているらしい」
「なんと、床屋ごときが学派を名乗るとはな……まぁ、庶民が貴族に憧れるのは世の常だが、流石に行き過ぎというか……庶民のくせに学問に励むとはなんとも……」
ただ呆れる私を見て、友人は目つきを鋭くした。
「おいおい、ずいぶんと悠長な反応だな。これは意外と大変な話だぞ?」
「なんだと」
「大学生ごっこで自尊心を膨れ上がらせ、医師に従わない者が出てくるようになれば問題だ」
「た、たしかに」
彼の言うとおりだった。そもそもドイツ語で書かれた医学書という時点で疑わしい。それを読んで『自分も医学書を読んでいる』と胸を張るだけならかわいいものだが、書いてあったことを根拠に我々の指示に刃向かうようになってもらっては困る。
「頭が痛いな……かといって勝手に集まって本を読んでいるだけなら犯罪でもないし、連中を取り締まる方法がない。ほとぼりが冷めるまで放っておくしかないか。面倒だな」
ため息をつく私に、彼はさらに畳みかけた。
「そこでだよ。君はドゥルカマーラという姓の者を聞いたことがあるか? 医師や貴族に限らず、だ」
「いや、一切聞いたことのない名だが……」
「そうだろう? 実は、私は奴が異邦人なのではないかと疑っている」
『異邦人』……その言葉に私は嫌な予感を覚えた。隣国であれば別に良いが、明らかに違う意味を含んでいたからだ。
「床屋が言うには、その本を最初に配り始めたのは歯抜き師だというんだ。その歯抜き師はドゥルカマーラの直弟子で、本当は医師になるはずだったところを、その道に進めず家を飛び出して歯抜き師になったらしい。床屋にはその歯抜き師からもらった著書を借りた友人がいて、それを更に借り受けたという話だった」
「医師になるはずが歯抜き師か……ずいぶんと胡散臭いな。医師の道を諦めたとしても、他にいくらでも職はあるだろうに、わざわざ賤民にまで身を落とすだろうか」
「そうだ。つまりその歯抜き師はおそらく、本当はドゥルカマーラの直弟子ではない。歯抜き師など所詮は旅芸人、帝国に流れてくる途中で、ドゥルカマーラに金でもつかまされて著書を配ったんだろう。旅芸人は裏の商売に手を染めるものも多いからな」
「しかし、何のためにそんなことを……」
「言っただろう? 異邦人なのではないかと。しかも、隣国の医師ならどの国であれラテン語はできるはず。わざわざ聖書の言葉を避けて書く必要があったということだ」
「……つまり、ドゥルカマーラは異教徒か!」
「ああ、異教徒がこの地に乗り込んで来ようとしているのさ。床屋に学派を作らせるほどの熱気、それが信仰以外に何がある?」
「君の言うとおりだ。医学を床屋の自尊心をくすぐり、そこを起点にしてじわじわと邪教を浸透させる。恐ろしい……」
「しかも、床屋の話を信じるならば、その著書の内容は人体の中身についてだという。今は異教徒との戦乱のさなかだ。キリスト教徒が、帝国の民が、異教徒によって殺された結果があの本である可能性すらあるのだぞ」
私は「愛の妙薬」を良いものと思っていたころの自分を恥じた。あれは悪書をばら撒くための呼び水だったのだ。
「……この話は、他の者にもしているか?」
「いや、君が初めてだよ」
「早急に医師仲間を集めよう。教会関係者もだ。この件は都市参事会に訴え出て、なんとしてもドゥルカマーラを捕らえるのだ」
……そして、友人の来訪から1週間が過ぎた。戦慄く手を握りしめ、今私は都市参事会市庁舎の扉を叩く。そう、この感情は、このどうしようもなく湧き上がってくる私の怒りの名は『義憤』だ。私はここに揃った同志たちとともに義憤に身を投じ、異教という悪をこの地から駆逐せねばならない。
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