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喜ばしきこと

「……というわけで、昨日オイレの歯抜きを見に来ていた観客の中で、冊子の内容に共感を持ちそうな者には、すでに配布ができたそうだ」


「それは良かったです」



 私は今、ヨハン様の私室で、肩を並べて夕食をいただいている。再び塔に戻ってきてから、ベルで呼び出されることがなくなったため、急ぎでない報告事項などでは、配膳のあとにそのまま夕食に誘っていただくことが多くなったのだ。



「どんな人たちが冊子を求めに来たのですか?」


「内容そのものに興味を示した床屋が2人と薬屋が1人、オイレに対抗心を持っていた歯抜き師が1人。結局、自ら求めに来た者はいなかったそうだが、床屋と薬屋はオイレが渡しに行ったら喜んで受け取ったそうだ。歯抜き師の方は、ラッテがオイレの忘れ物ということにして渡してやったらしい」


「オイレさんに対抗心を持った人って、そんな方に冊子を渡して大丈夫なんでしょうか……いちゃもんをつけられるのでは?」


「いや、ラッテの見立てが外れたことはない。レーレハウゼンの大道芸ではオイレが人気を独占している状態だからな。事情を知る流れの旅芸人はレーレハウゼンを避けて通るほどだという。それに勝つためとあれば、まず敵を知ろうとするのは当然のことだ」



 たしかに、オイレさんから直接渡されたならともかく、オイレさんといざこざ(・・・・)を起こしたラッテさんが意趣返しとして持ってきたとなれば、その歯抜き師には渡りに船だっただろう。



「何にせよ、冊子に興味を持つ人たちがいてよかったです。」


「ああ。今回はオイレの歯抜きを見に来ていた観客だけが対象だったから、来ていた医療従事者の母数を考えれば割合としては上々だ。後は冊子を渡した者たちから評判が伝わって、新たに欲しがる者が増えていくだろう。今回興味を示さなかった床屋たちも、仲間の腕や評判が上がったとなれば後から興味を示すはずだ。」



 ヨハン様の口角が僅かに上がる。狭い塔の中で、ご領主様のご子息としてのお仕事もこなされながら、今まで孤独に向き合ってこられた異国の医学が、初めて実践の場で実を結ぼうとしているのだ。



「ヨハン様、本当におめでとうございます」


「うん? 何がだ?」


「今までの長いご研究の成果が、ようやく世に出たことです。冊子を読んだ床屋たちは、きっとこの国の医療の向上に貢献してくれるでしょう」


「そんなことか。まだようやく始まったばかり……というか、出発点にすら立てていないがな。床屋たちの技術が上がるのは良いことだが、連中は医師の指示なくして動くことはできない。まだここから、長い時間がかかるから、お前も覚悟していろ」


「それでも、私はまずここまで来られたことが、本当に凄いことだと思います。10歳の時に、この国の医療を刷新するのだという大きな志を抱かれてから8年以上……」



 言いかけて気づいた。私がこのお城にご奉公に来てから1年以上が経過している。



「……ヨハン様。失礼ながら、ヨハン様は今おいくつでいらっしゃいますか?」


「20だ」


「あの、ということは、お誕生日は……」


「だいぶ前に過ぎたな」



 ……やってしまった。こんなにお傍にお仕えしていながら、ヨハン様のお誕生日すら知らなかった。うろたえる私を、ヨハン様は怪訝な顔で見つめている。



「何を困っている。俺の年がどうかしたか?」


「申し訳ありません。お誕生日が過ぎていたことに気づかず……」


「気づかずというか、教えていなかっただろう。そもそも別に、誕生日だからって何があるわけでもないしな」


「そんなことおっしゃらないでください。せっかくのおめでたい日ですのに……」


「ふん、なんだ。まさか、祝いの宴でも開いてくれるつもりだったのか?」


「宴を開くことはできませんが、何かお祝いできるならしたかったです」



 いかにも冗談という感じでくくくと笑うヨハン様に私がそう答えると、ヨハン様は目を丸くした。



「やはり変な奴だ、お前は」


「変わっていらっしゃるのはヨハン様です。お誕生日も、冊子が初めて世に出たことも、どちらも大変喜ばしいことですよ? なぜそんなに天邪鬼になられるのです」


「……言うようになったな。前は俺と喋るたびにびくびくしていたくせに」



 ふい、と横を向かれてしまったが、その表情はあくまで柔らかい。身分が使用人ではなくなったからか、あるいは共に過ごす時間が長くなったからか……なんだかんだ何を言っても許してくださるヨハン様に、いつの間にか私もずいぶん図に乗った物言いをするようになってしまったようだ。



「大変失礼いたしました。その、要するに、長年のご研究が形になったことは、まだ最終的な目的からは遠くとも、素晴らしいことだと言いたかったのです。ヨハン様はいつもご自分に厳しくていらっしゃいますが、こういう時はもっとお喜びになっても良いのではないかと思い……」


「ああ、言いたいことは理解しているから安心しろ。だが、まだ気を抜くことはできないのさ。俺はどうも、冊子を作っている最中にオイレが言っていた『普通の人間には衝撃的すぎる』という言葉が引っかかっている」


「たしかに、冊子の内容に感銘を受けた床屋が、別の床屋に渡した結果、周囲から異端視されるようなことはありえそうですね」


「そうだ。床屋や歯抜き師の間で揉め事が起こるならまだしも、せっかく啓蒙された者たちがギルドから締め出されるような事態に発展しては問題だ。早々に彼らを守るような手を打たねばなるまい」


「何か策がおありなのですか?」


「考えてはいるが、本来工作に使うはずの隠密の手を、これ以上医学に割くわけにもいかん。今は様子見の期間だ。悪い兆候があればすぐ対処できるよう、準備を整えておかなくてはな」

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