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疑いに生きる

「ヨハン様に常識がないなんてことはないと思います」


「ヘカテーの言う通りです。ヨハン様は、自らの志のもとに、時折あえて常識を覆すようなことをなさいますが、知っていなくては覆すことなどできません」


「私もそう思います」



 常識がないとのご発言を、私たちは慌てて否定する。しかし、どうやら自虐でも皮肉でもないらしかった。



「お前たちがそういってくれるのは嬉しいが、別に自虐を込めていったわけではない。俺は常識そのものに善悪はないと思っているからな。しかし俺の根幹は、疑うことによって成り立っている。それは社会で生きていくために必要な常識とは相いれぬものだ」


「疑うことも、生きていくのには必要ではないのですか? 言われたことを何もかも信じていたら、騙されて苦い思いをするかもしれません」


「程度によろう。ヘカテー、お前はこの間、俺は庶民の感覚がわからなかっただけだといったな? 確かにある面ではそうなのかもしれん。思えば俺にやたらと疑う癖がついていたのは、この塔で暮らすようになる前からだ。これはおそらく一貴族として、隙あらば出し抜こうとする者たちに囲まれて育ったことに起因している。しかしな、普通の人間はそれでも、ある程度は見たまま・聞いたままを受け入れ、考えるまでもない当たり前のものだと思い込むことができるのだ」



 ヨハン様は困ったように眉尻を下げてお話を続けられた。



「俺にはそれができない。その思い込みを多くの者たちが共有すれば『常識』と名が付き、共有できぬものをはじき出す『社会』が生まれるというのに、俺は誰かに言われた言葉だけでなく、眼にするもの、耳にするもの、すべてをまず疑ってしまう。自ら理由を考え、それに納得しないと先に進めない」


「それは……」



 私が反応に困っていると、不意にオイレさんが口を挟んできた。



「ヨハン様。それはもしかして、今見えている世界がすべてまやかしなのではないか、という恐怖によるのではございませんか?」


「なっ……!?」



 眼を見開くヨハン様に、オイレさんは温かい微笑を浮かべる。



「恐れながら、私もそうなのです。私は旅芸人の身、位の高いお方と比べてはおこがましいですが、やはり物心ついたころには周囲が嘘と理不尽で溢れておりました。そのせいか、私は他人の言葉はもちろん、自分の眼や耳も素直に信じることができません。ややもすると、自分は悪魔にでも取り憑かれ、長い長い夢でも見せられていて、ひとたびパチンと指でも鳴らされれば全てが崩れ去り、眼前の景色は地獄に変わるのではないか……などという妄想に狂いそうになります」


「……ああ。俺も似たようなものだ。」



 お二人の会話を聞きながら、私は一人納得していた。


 オイレさんは飄々としている。隠密の方々の中では最もお話したことの多い人だが、いつも何かの役を演じていていて、自分というものが存在していないかのような印象をもたらす人だ。私は未だにどのオイレさんが素の姿なのかわからないし、一度も私に素の姿など見せたことがないのではないかとも思う。まるで自分をこの世界の一員とは思っていないかのような振舞いに、どんなに親しくお話していても妙に距離を感じていた。もちろん、私は心からオイレさんを信頼しているが、言葉にできないようなその遠さにさみしさを覚えることも多かった。


 それはきっと、私が「思い込みができる」側の人間で、オイレさんがそうではないがために存在する壁だったのだろう。彼は本当に、自分をこの世界の一員と思っていなかったのだ。



「だからこそ、私はヨハン様にお仕えしているのです。初めてお会いした日のことを覚えておいでですか? あの時ヨハン様は、夜通し私に医学を語り、私をその見えない地獄(・・・・・・)から救ってくださいました。異国の書物を手に、世界というものの一片を解剖(・・)して見せてくださったのです」


「オイレ、お前はそんなことを思っていたのか……大げさなことを言うな。あの時の俺は今以上に(・・・・)知識が浅く、世界はおろか医学のほんの少しさえ語ることはできていまい」


「いいえ。少なくともあの時間、私は確かに救われていました。今もこうしてヨハン様のご研究に触れている間は、その妄想に取り憑かれなくて済むのです……ヨハン様、私は眼に映る世界が崩れ去りそうになる恐怖を知っております。きっと何度も辛い思いをなさってきたことでしょう。しかし、無意味な常識など持たず、与えられるものを当たり前と受け入れないからこそ、真実に近づくことができるはずです」



 微笑を浮かべたままで滔々と語るオイレさんを、ヨハン様は少し目を潤ませながら眺めている。



「……その結果手にした真実は、僅かであっても人を救います。医学であれば猶更です。ヨハン様の切り拓こうとなさっている道は、長く険しいものでしょうが、このオイレ、その一助となれるのであればどんなことでもいたしましょう」



 だがその表情は、オイレさんがそう言った途端、急速に険しいものとなっていった。



「おい、その眼は一体なんだ」



 そして、ヨハン様は突然、つかつかとオイレさんに詰め寄ると、その胸倉を乱暴に掴み、言い放ったのである。



「お前、一体何を考えている? どうしてそんな、覚悟を決めた(・・・・・・)者の眼をしている!?」

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