塔の悪魔
北の塔に棲んでいるのは悪魔なのだという。それが、私がこのお城にメイドとして奉公に来てから、最初に聞いた噂話だった。美しい外観から『夢見るような城』と名づけられたお城には似つかわしくないものだが、この奇妙な噂話が事実であるということを、今日私はこの身を以て思い知ったのだ。
私はいつもと違う仕事を言いつけられた。髪と瞳の黒い色、そしてひと目で異邦の血がわかるこの顔などは、私を周囲から孤立させている。故に、私に仕事を教えた同じメイドの先輩が、性質の悪い気紛れを起こしたのも決して不思議なことではないのだが、今思えば運命的なものだったと言えるだろう。
「ほら黒髪女、今日はあんたが当番だよ。部屋は四階、扉の紋章が目印だから」
先輩は確かにそう言った。黒髪女の触れた料理など、例え悪魔でも嫌がるのではないかと笑いながら。
悪魔とは、領主のイェーガー方伯様のご子息、次男のヨハン=アルブレヒト様のこと。幼い頃は非常に優しく聡明なお坊ちゃまだったそうだ。動植物を愛し、本を読むのが好きなおとなしい方で、誰にでも分け隔てなく接する姿は使用人たちにも人気があったようである。
血に狂うようになってしまったのは十歳の時、二つ上のお嬢様が亡くなられたころからだそうだ。仲良しの姉君の死に、幼い心が耐えきれなかったのだろう。車裂きなどの処刑を最前列でご覧になるのはまだ良い。生き物とみれば見境なく切り裂き、はらわたを引きずりだして弄ぶ。使用人が怪我をしたといえば目を輝かせ、傷口を捏ね繰り回して無用な折檻を加える。街で葬式があると聞けば喜んで出かけ、死体を浄める女たちの間に割って入って絵に写す。方伯のご子息という立場にありながら、死やそれに準ずるものに直接触れたがるようになっていったのだ。そうした行動をご領主様に見とがめられた結果が、今の北の塔……つまり幽閉である。
フェルトロイムト城には南北二つの塔がある。広いお城の中にあって、この五階建ての細長い塔のうち、日当たりの悪い北の塔が幽閉先に選ばれているあたり、ご領主様のヨハン様に対するお怒りは計り知れないものだったのだろう。
ただ、ヨハン様の血狂いは閉じ込めた程度では収まらなかった。むしろ、閉じ込めてしまったことで残虐性は悪化している。
北の塔に居を移して数日後、料理を運びに行ったメイドが帰ってこないので騎士を連れて部屋に乗り込んだところ、見るも無残な姿で発見された。皮を剥がれ、腹を裂かれ、ただ殺すのではなく拷問されたことに疑いはない状況だったそうだ。
さらに翌週、今度は侍従が殺された。優秀な男だったが、腹を裂かれるどころか頭も手足も切り離されバラバラになっていた。それを聞いた奥方様が卒倒したという。
さすがにこれ以上死体が増えては困るということで、元々のお付きの使用人は全員他の持ち場へ異動となり、一日二回の食事と御用聞きのみを下級の使用人が当番制で行うことになった。それでも尚、塔の奥から血の臭いがしたり、お言付けの紙が血に濡れているといったことが絶えないのである。
……そして、その「当番」が今日は私だったのだ。どうにか穏便にこの任務をやり遂げる、私の頭の中はそのことでいっぱいだった。だからこそ、言いつけられた仕事の奇妙さにきづけなかったのかもしれない。
扉を叩いて声を掛け、お食事を持ってきた旨をお伝えすると、少し間があってから低い声で返事が聞こえ……小さな物音がした。そして、内側から扉が開くと同時に、喉元に冷たい何かを感じ……それはすぐさま痛みに変じた。
「お前は何者だ、一体誰の許可を得てこの部屋までやってきた?」
そんな声と共に、見上げた私の目に飛び込んできた光景は、まっすぐ喉元へ突き付けられた剣、怒りと警戒を露わにした射貫くような眼差し。それが、私の人生を変えるお方との、最低最悪としか言いようのない出会いだったのである。
ヨハンは18歳、「私」は14歳。二人とも実在のモデルがいますが、それを明かすと若干ネタバレになるので今は秘密。
12世紀末の神聖ローマ帝国(まだ国号がないので単に「帝国」)とその周辺を中心にしたパラレルワールドを描きます。物語スタート時点で1187年10月です。
尚、この時代の女性使用人(Mägde)は「女中」と訳されるのが一般的ですが、筆者の個人的こだわりにより「メイド」に統一しています。