容赦なく襲い来る衝動と現実
「……は? 今何て?」
今かなり重要な事を話そうとしていたクリスの言葉に、かぶせるように言うミルの言葉が理解できず、思わず聞き返すクリス。
「……だからおしっこ漏れそうだって言ってるんだよ!!!」
顔を真っ赤にしながら、もじもじと恥ずかしそうに、だが大声で聞こえるように絶叫するミル。やけくそとも言う。
「お、おう……」
そういや最初に乙女の秘密がどうのっていってたなぁと思いだす。予想外の連発に完全に忘れていた。
「だいたい何で強制ログアウトしないんだよ!? 普通あるていど我慢してたら自動で落ちるはずだろ!? 任意ログアウト出来ないから強制ログアウト待ちだったのに、いっこうにログアウトしないし! すっごいお腹痛いし!! なんなんだよもう!!!」
あまりの尿意にブチ切れながらまくし立てるミルに、クリスは居たたまれずそっと目をそらした。
「取りあえず、その辺の草むらでしてきたらどうよ」
「草むらでしようがここでしようが現実じゃおねしょじゃないか! さっきまでまだ全然イケルって思ってたのに急に我慢できなくなるし! 二十歳すぎておねしょとか洒落になんないよちくしょう! 運営仕事しろ!! 救済はやく!!!」
完全にパニックである。ロールプレイする余裕もない程漏れそうである。
そしてどうでもいい情報だが、どうやら稔は、ヘッドセット型のVRマシンをベッドで横になりながら使っていたらしい。
ちなみにクリスはちょっと上等なリクライニングチェアを購入し、それでやっていた。
「あー……女は近いって言うしなぁ」
「僕は男だし! あっ、やば」
力んだ拍子にビクンと体を震わせるミルに、クリスの方が慌てた。
「お前の放尿シーンとか誰得だよ!? いいからそこの草陰で済ませてこい! ここで俺に見られながら漏らすよりいいだろう!?」
「あー! もう!!分かったよ!!!」
草陰に飛び込むミル。VRで漏らせるのか? という疑問は切羽詰まり過ぎて考えが至らない。
「やり方は分かるか!?」
「VRのおしっこの仕方なんてわっかんないよ!」
カオスである。
だが本物カオスはここからだった。
「え!? あれ!?!?」
「どうした!?」
「たっつん!? たっつん!! パッパッ」
「パッ!?」
「パンツが脱げる!?!?」
「お、おう! 良かったな! これでパンツ濡れなくて済むぞ!!」
「そうだね! 良かった!!」
「スカートも濡らすなよ!」
「うん! ……たたたたたっつん!?!?」
「今度はなんだ!?」
「つるっつる! つるっつるや!!」
「そ、そうか。……あえて何がとは聞かないが」
なんで関西弁やねん、と脱力しながら心の中で突っ込みを入れるクリス。
やがて聞こえてくる微かな水音と、「あ゛ー」という解放感と罪悪感が入り混じった声。
「……ふぅ。たっつん紙持ってない?」
「……トイレットペーパーは無いが、【浄化】のスクロールならあるぞ」
「……もう紙ならなんでもいいよ。取りあえずちょうだい」
「ほれ、あとそろそろ本名プレイやめーや」
このスクロールもまさかこんな形で、便所紙代わりに使われるとは思ってなかっただろうなぁと思いながら、ミルにスクロールを投げてよこすクリス。
しばし待つと、服を整えたミルが草陰から出てきた。
「クリス、大事な話があります」
「あぁ……というか、俺もかなり大事な話の途中だったんだが」
どうしてこうなった。と頭を抱えながら、クリスは改めてミルにさっきの続きを話そうとするが、それを遮り、世界の真理を悟ったように深く落ち着いた目をしたミルが口を開く。
「限界まで我慢したおしっこはすごっく気持ちよかっt「黙らっしゃい」」
賢者モードで明後日の方向の下ネタを口走るミルの脳天に、遠慮の無いチョップが叩き込まれた。
「痛ったぁ」
頭を押さえてうずくまるミルを、氷のような目で見るクリス。
VIT極振りのクリスのチョップは、STRが初期値でもミル程度の紙装甲なら容易く貫くようだ。当ったら死ぬAGIとSTR極振りステの悲哀である。
そんなミルを無視し、クリスはさっきから言いたかったけど言えなかった事を宣告した。
「これはゲームではない」
厳かに、それこそ神託を宣言する教皇もかくやという雰囲気で、どこぞのゲームマスターのような事を宣うクリス。
「台詞が微妙に違います。もう一回」
「これはゲームであっても遊びでは……ってそういう天丼ネタいいから」
真剣で重要な話をしているというのに、どうもシリアスになりきれない二人である。主にミルのせいだが。
「……まぁさすがの私も、ここまで状況証拠が集まれば言いたいことは理解できます」
「ほんとか? ほんとにほんとに理解できてるか?」
クリスは疑わしそうに、立ち直ったミルを見る。
こと戦いにおいては、無類の戦闘センスと高いステータス、可憐な見た目で【暴風の戦乙女】やら【戦場の舞姫】やらと御大層な二つ名が付いているが、身内からのあだ名が【戦バカ】やら【脳筋戦士】やらな時点で、残念っぷりが察せようというものだ。
「これは『現実』だ。と、言いたいのでしょう?」
しかし普段の残念っぷりを感じさせない真剣な顔で、真っすぐこちらを見つめて言うミルに、本当に理解している事を察したクリスも真面目に答える。
「そうだが……完全に確信しているみたいだな。俺も9割がたは現実だと思ってはいるが……どうして確信できたんだ?」
その問いに、ミルはすっと視線を落とし、自分の足元を見る。
その仕草が妙に儚げな様子に、何かあったのかと心配になるクリスだが。
「さっき拭く時に、いじくりまわして確認しましたから」
なにやってんだコイツ。
最低な現状確認方法に一瞬でげんなりするクリスだった。
「まぁいいよ。現状確認のすり合わせは出来たし、これからはこれが現実であるという認識でいこう」
「分かりました。どうしてこうなったかはさて置き、現状出来る事はやはり、一刻も早くアダムヘルへ向かう事ですね」
「まぁそうだな。帰る方法を探すとしても、こういう場合のセオリーはまず拠点の確保だし」
VRゲームが現実になったという正気では受け入れがたい事実ではあるが、数々の物的証拠に納得せざるを得ない二人。
普通ならパニックになりそうなものだが、幸いにも親しい友人が一緒ということもあり何とか平静を保ち、今後の事について話し合った。
転移した原因すら不明な現状では、取り合えず宿屋でもなんでも腰を落ち着ける場所と、安心して生活できる生活基盤の構築が必要だ。そういった異世界転移物の小説でもそうだった、多分。と思うクリス。
「んじゃまぁ当面はアダムヘルの冒険者ギルドで登録して、宿を借りる事だな」
「登録が残っていればいいですが……望み薄でしょうね。という事はまたFランクからのスタートですか……お使いクエストは正直苦手なのだけれど」
「面倒なのは同意見だが、これが現実なら死んだら終わりの可能性が高い。まずは様子見で安全なクエストから始めるべきだ」
もとは最高ランクの二人にとって、Fランクスタートは面倒くさい事この上ないが、自分たちの強さがどの程度かすら分からない現状で、うかつに高難度の戦闘をするのは危険である。
「めんどくさいですわ。サクッと昇級試験でDランクくらいになりましょうよ」
「我慢しろ」
全力でめんどくさそうな脳筋戦士を、苦笑しながらなだめるクリスだった。
「ところでクリス、門番がいるようですが、対応は全て任せますね」
そろそろアダムヘルへ到着しようというところで、ミルがそんなことを言い出した。
傍から聞けば何のことかわからないだろうが、そこは付き合いの長いクリスだ。言わんとすることは当然わかる、が。
「またかよ……これは現実なんだし、その無口設定もういらないんじゃね?」
心底面倒臭そうに言うクリス。
ミルはAAO内では無口キャラで通していた。
それが見た目の可憐さと相まって、多くの善良なプレイヤーにリアメスの神秘的な美少女と認識され、さらにその見た目に似合わない圧倒的な戦闘力で、一種のアイドル的な扱いにもなっていた。
ちなみに、なぜ無口設定などというものに至ったかというと、
「喋るとネカマってバレるじゃん!」
という、とても残念な理由だった。
「ゲームが現実になって肉体的には完全な女なんだから、もう誰もお前が男なんて思わねぇよ」
「むー、そんなこと言われても中身は男だしなぁ」
もっともな意見であるが、長年続けた習慣というのはそう簡単に直せるものではないようだ。
「まぁ善処するけど、しばらくは今まで通りでお願い」
「ったく、しゃぁねぇなぁ」
まぁこの右も左もわからない状況で、ミルに何かさせれば一発で騙されて連れ去られそうだ。
頭は悪くないのだが、ものを深くまで考えず感覚で行動するので、自分が前に出たほうが総合的に見て安全と合理的に判断し、クリスは承諾した。
なんだかんだで幼馴染に甘いクリスであった。