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恋愛運最低最悪の黒猫少女がそれでも恋をする話

作者: 大場鳩太郎

 ちゃりーん。


 賽銭箱の格子にぶつかった五十円玉は音を立てて弾け飛び、地面に敷かれたブルーシート上でくるくる回転した後、ぱたりと倒れる。


「うぎにあ」


 猫子こと黒森猫子は思わず頭を抱え、潰されたみたいな悲鳴をあげていた。


「なぜ入らんのだ」


 いい加減疲れていた。

 何度賽銭箱に小銭を投げても外れるのだ。今日の為に五十円玉を何枚も用意してきたというのに一円たりとも入ることはなく、損失は既に千五百円を越えていた。


「ねえ猫っちゃん、もうやめたほうがよくない?」


 隣で見守っていた鳩ちゃんこと豆山鳩子もうんざりしたような顔をしていた。


「だめなのだ」


 猫子は首を振った。

 始めた以上、一度でいいからあの憎き賽銭箱の口のなかに硬貨を叩きつけねば気が済まなかった。


 そうでなければ新らたな気持ちで新年を迎えることができそうにもなかったし、何より神様が「お願い」を聞いてくれないような気がした。


「ふっふっふっ……」


 猫子は暗い笑みを浮かべ、財布の小銭入れのなかに手を伸ばした。


「見ててくれ。今度こそ絶対入れてやるのだ」

「次で終わりにしときなよ?」

「わかってるさ。こいつでとどめだ」

「ちょ、ちょっとそれ」


 猫子が指に挟んでいる硬貨を見て、鳩子が血相を変えた。

 これまで投げ入れていたのはせいぜい五十円玉がいいところだったが、今回は御賽銭にしては尋常ではない額――五百円玉だ。


「せめて百円とか」

「いいや鳩っちゃん、私はやるぞ。今年こそ運勢を味方につけて犬君に告白するんだ!」


 猫子は真剣だ。

 今回のお年玉ではそれなりの収穫を得ていたものの既に使い道の予定を十円単位で組んでいる。

 そこから五百円が消えるということは、今後の人生にすら大きな影響を与えかねないことを意味していたが、それでも止めるわけにはいかなかった。


「デッドオアラヴ」

「ラヴじゃないって、あんた頭に血が上っているだけだって。いい子だからそいつをゆっくりと地面に起きな」


 拳銃を構える犯人と対峙する刑事のような言葉で説得してくる友人に、猫子はゆっくりと首を振った。

 すでに覚悟は決めている。


「女にも一生に一度くらい引けない時ってあると思う」

「分けわかんないことを」

「えいっ」

「ああっ」


 かくして五百円玉は放たれた。

 構えはお手本通り、おかしな力みもなく、プロさながらの完璧なフォームだった。

 そして狙い正しく、まっすぐ賽銭箱に向かう。


 だが――

 偶然か運命の悪戯か賽銭箱の格子に接触すると、そのまま落ちずにくるくると回転を始め出した。


 ーーところで黒木猫子の愛称は「黒猫ちゃん」である。

 家族やクラスメイトなど近しい人たちからは「黒猫」もしくは「クロ」「ねこ」などと呼ばれて親しまれていた。


 愛称の由来は、何度ヘアブラシで抑えつけてもなおらない両わきの跳ね上がった髪毛が三角耳に似ているからであり、アーモンドのような目をしているからであり、普段着に黒のワンピースを好むからであり、性格がちょっとだけ気分屋なところがあるからであり、なんというか全体的に黒猫っぽい女の子だからだ。


 けれどももう一つだけ、「黒猫」という愛称が定着した理由がある。

 それはある特異体質のせいだ。


 本人はこれだけはなんとしても、どんな手を使ってでも変えていきたいと思っていた。何とかしなければこのままでは自分はいつかとんでもない目に遭ってしまうだろうという危機感すら抱いたりしていた。


 そして今回、賽銭箱にやっきになっているのは他でもなく『その特徴をなくして欲しい』と神様にお願いする為だったーー。


 さてお賽銭を投げた後の描写が途中だったので話を戻そう。


 件の五百円玉はその場に留まりながら、曲芸の駒の如く綺麗な回転を暫く続けていた。

 だが次第に勢いを失くしてくるとふらふらと不安定な動きを見せ始め、そのまま――賽銭箱に入ることなく格子の上で静止した。


「は――?」


 ショックのあまり猫子はその場で気を失ってしまった。


「あんたのほうがとどめ刺されてどーするよ」という友人の冷ややかなつっこみももはや耳に入らない。


 さてここまでくれば懸命なる読者諸君にはお分かりだろう。


「黒猫ちゃん」こと黒木猫子の特異体質――それはどういうわけか常日頃から黒猫に横切られているのではないのかと囁かれるほど不運(アンラッキー)である事だった。



 境内の売店を訪れると、巫女服の少女――辰宮寅子が窓口でにやにやしながら待っていた。


 開口一番に「酷い目に合ったようだな」と言ってくる。

 どうやら賽銭箱での一部始終を見ていたらしい。


 彼女は猫子の友人のひとりだ。

 今回の初詣は実家の手伝いで巫女として駆り出されている彼女に会うことも兼ねていたのである。


「おい責任者、あの忌々しいぼったくり賽銭箱を何とかするのだ」

「どうみても猫っちゃんが悪いんだけどね」

「そーそー運の悪さを棚に上げるなよ」

「うう……私はいわば被害者だぞ。友人ならせめてものお詫びに第一回賽銭箱で掴み取り大会とか企画したらどうなのだ」

「んな罰当たりな企画できるわけがないだろ」

「神主の娘という立場はただのお飾りなのか? ここで使わずいつ使うんだ?」

「馬鹿猫め、ただのバイトにそんな権限なんぞあるがけがない」


 寅子が顔をしかめて舌を出してくる。

 だがすぐに「まあでも。御神籤くらいなら無料にできんこともないな」と付け足してきた。


 やるかと訊かれ「受けて立つ」と猫子は答えた。

「やめておいたほうがいいんじゃないの?」

「鳩っちゃん。女には一生に一度くらい引けないときがあると思う」

「あんた、それさっきも言ってたよね?」


 寅子が店から出てくると、持ってきた鍵の束をじゃらつかせそのうちの一本を御神籤自販機の鍵に差し込み、機体を弄り始める。


 硬貨を入れなくても御神籤が出るようになり、猫子と鳩子は順番に押させてもらう事になった。


「ちなみに神主である親父殿の戯れで『超吉』というのが何枚か入ってる。当たったら粗品をくれてやろう」

「確率はどれくらいなの?」

「二百六十万分の一だな」

「正直嘘くさいのだ」

「さて……どうだった?」

「……ふむ私は中吉だねえ」

「鳩子は何やらせても普通だよな」

「ふふん私にとってはこれがベストの結果なのですよ」


 鳩子は眼鏡をくいっと持ち上げる仕草をしてみせる。

 彼女は何故か普通であることにこだわりを持っている変わり者だった。


「猫子はどうなんだ?」

「……」


 猫子は折りたたまれた御神籤をじっと凝視していた。

 まだ開いてはいない。

 爆弾を解体するかの如く慎重な手つきでそうっと端のほうから捲ろうと――。


「よこせ」と横からにゅっと友人の手が伸びてきて奪われる。


「ふむふむ?」

「どれどれ?」

「勝手に開くななのだ」


 乱雑な手つきで御神籤を開いた寅子が、そこに記載されている結果を難しい顔で確認している。

 それからただ「ふう」と溜息だけをつくと、何も言わずに元通りに折りたたんだ御神籤を猫子に戻してくる。


「え? え? どうしたのだ?」


 事情が飲み込めずに困惑する。

 鳩子のほうに教えを請うような視線を送ったが、黄昏た表情を明後日の方向に向け「ごめん」と言うだけで答えてはくれなかった。

 おっかなびっくり御神籤を捲ってみる。


 そして目の前に飛び込んできた今年の猫子の運勢をシンプルに評価したその漢字一文字にふるふると手を震わせた。

 すなわちそれは「凶」。


 暫くの間、何かの間違いではないかと紙片を食い入るように見つめていたがいくら経っても結果は変わらなかった。


「うう……」

「ま、まあ吉を引いたら猫っちゃんじゃないし、だからむしろ運勢っていうよりは猫っちゃんそのものを表していると思う」


 鳩子が気遣っているようで気遣いになっていないフォローをかけてくる。

 だがしかしショックで落ち込んでいるわけではなかった。


「うふふふふ」

 猫子は笑っていたのだ。


「あ、あれ? どったの?」

「凶。これまで幾度となく御神籤をひいてきた私にとってこれほど素晴らしい結果はないないのだ」

「は?」

「何故ならば私はこれまでの御神籤人生において大凶しか引いた事がないのだよ」


 一般人にとって凶は良くない運勢なのかもしれなかったが、猫子にとっては中吉もしくは大吉と同じ意味を持っていた。


 故に不吉を告げるはずの御神籤を愛しそうに頬ずりしながら「これは快挙だなあ」と口元をにやつかせる。


「ポジティブシンキング……なの? 不憫すぎるよ猫っちゃん!」


 カランコローン、とふいに鐘の鳴る音がした。

 窓口のむこうで近所のスーパーの福引で見かけるような鐘を振る寅子がいた。


「えーここで非常に残念なお知らせがございます」

「なんだ?」

「当店のおみくじは現在、ハッピーハッピーキャンペーンを実施中させていただいております」

「ハッピーハッピー?」

「はい。お客様には極力、幸せなお正月を過ごしていただきたいという当神社の配慮から『凶』という文字のつく結果はあらかじめ取り除かせて頂きました」

「!」

「う、嘘だ!」

「本当でございます」

「じゃ、じゃあ猫っちゃんの御神籤はなんなの⁉︎」

「多分去年のを一枚だけ取り除き忘れたんだろうなあ……黒猫運悪過ぎ」

「あ、良く見ると西暦の記載が去年だ」

「そんなのを引くなんて超吉よりも低い確率何だけどな。……仕方ないからお詫びの品をやろう」

「……」


 寅子がポケットティッシュを手渡してくるが、あまりの出来事に完全燃焼した灰のように真っ白になって固まり、受け取れなかった猫子だった。



 境内の裏側まで重い足を運ぶと、友人のアドバイスに従って細い木の枝にしっかりと御神籤を結んだ。


 知らなかったのだがこれが「凶」を取ってしまった運勢をチャラにしてもらえる唯一の方法だそうだ。


「ふにぁぁ……」

 思わず溜息がこぼれる。


「せめて恋愛運だけでも良ければなあ」


 厄払いせずにいられなかったのは「想い伝わらず」とか「悲劇が訪れる」といったとんでもないこと言葉で始終していたせいだ。

 今年こそは彼に告白しようと決めていたのが止めた方がいいかもしれない。


「……ん?」


 売店から鐘の音が聞こえてきた。

 誰かが「超吉」とやらを当てたのかもしれない。


 羨ましいと思うのと同時に、自分の運のなさが恨めしかった。何故こんなにもついていないのだろうか。

 ジャンケンをすればまずあいこにもならず負けてしまうし、阿弥陀籤をすれば必ず良くないほうに結果は転んだ。懸賞などに当たったことはこれまでになく応募者全員プレゼントですら手違いで発送されなかったこともある。


 とにかく気が滅入るのでこれ以上思い返したくはないが何かにつけてついてない。


 母親が呪われているのではないのかと本気で心配し祈祷師を呼んだというエピソードを持っているのは自分くらいだろう。


「ふにぁぁ……そうだ何か甘いものを食べて気分転換しよう……お汁粉……甘酒でもいい……」


 ぶつぶつ呟きながら、だらだらふらふらと友人たちのいる売店へと戻ろうとすると、ふいにある人物が目に入った。


「――っ!!」


 心臓跳ね上がる。

 モスグリーンのジャンパーを着た男の子が真面目な顔で手に持った紙切れのようなものを見つめている。

 間違いない。白山犬彦その人だった


 彼は猫子の通う中学校の同じクラスメイトである。地元がこの付近であることは知っていたがまさかここで会うことになるなど、まさか思ってもみなかった。


 いや嘘である、実は結構期待していた。偶然出会えたら嬉しいななどと思いながらとっておきのワンピースを着てきていた。

 正直すこしパニックになっており、さっきまでスローペースを刻んでいたはずの鼓動がいまや短いビートをどどどどどと刻んでうるさかった。


 彼がふいに顔を上げーーこちらと目があった。

「あ」と向こうから間延びした声。

「う」

「やあ猫子」

「お、お、お、おう」


 逃げる場所も隠れる場所もなく、猫子はぎこちなく腕を上げて返事をした。


「や、や、やあ犬君じゃないか今気づいたよ。どうしたんだいこんなところで。いやとにかく奇遇だ。いや奇遇だ」

「うん奇遇だ」


 動揺しまくり挙動不審な猫子に対して、犬彦はいつも通りのマイペースだ。


「さっき辰宮たちにも会ったよ」

「きょ今日はボードゲーム部で初詣にきてるんだ。い、犬君はどうしたのかな?」

「ちょっと散歩」

「そ、そうなのか。お、御神籤はやったかい?」

「ああ、そうそれ」


 犬彦は思い出したように手に持っていた紙切れ――御神籤を差し出してくる。


「変なのが当たったんだよ」

「変なの?」


 猫子がもしやと思い受け取ると、そこには案の定「超吉」の二文字があった。


「すごいな犬君、こいつはいいやつだぞ。景品と取り換えてもらえるんだ」

「ほんとに?」


 これで今年の運勢は約束されたも同然だろう。特異体質である彼にとっては全く必要のないことかも知れなかったが、それでも喜ばしいことだった。


「猫もおみくじはやったの?」

「ま、まあな。やるにはやった」

「どうだった?」

「え~っとな」


 如何ともし難い質問である。

 猫子は視線を泳がせながら「しょ、小吉だな」と控えめな嘘をついた。


「嘘だろ」

 すぐにバレた。


「うんそう。本当は凶だった」


 そう言うと、犬彦はくすりと笑った。

 口の左端のほうから微かに犬歯がのぞいていた。普段から何事にも動じず、滅多に感情を露わにしない彼だから、何だか嬉しくなってつられて笑顔になっていた。


 猫子はお賽銭での失敗も、御神籤の結果も綺麗さっぱり忘れてしまっていた。あれだけ重かった身体は今では羽が生えたように軽くなっている。


 何故かといえば、今訪れたこのシチュエーションこそが彼女にとっては何よりの幸運だったからである。



「あーっ犬っち、こんなところにいたあ」


 突然、嬌声とともに少女が現われた。

 背後からジャンプして犬彦の首にしがみつくと、頬を馴々しくすり寄せる。


 アイドルのように可愛い顔立ちをしていて、けれども服装や身に着けているバックがお洒落で、どこか大人びた雰囲気のある少女だった。


 犬彦はムスッとした表情になり「椿、急に飛びついてくるなよ」と言いながら、少女の腕を引きはがして地面へと下ろした。


「なによスキンシップは大切でしょっ」

「いらん」

「もう一人ですたすた行っちゃうし、手は繋いでくれないし、せっかく久しぶりに会えたんだからちゃんと付き合ってよね?」

「……」


 犬彦は困っているだけでべつに嫌がっている様子はなく、そのやりとりは仲睦まじくじゃれあっているように見えた。


 猫子はまさかその二人の間に割って入っていける度胸もなく、ただただ目を白黒させながら成り行きを傍観していることしかできなかった。


 状況がよくわからない。

 突然現れたこの可愛い人は誰だろう。なんでそんなにも犬君と親しげなんだろう。今抱きついていなかっただろうか。頭のなかで次々と湧いてくる疑問が渦を巻き、猫子を飲み込み翻弄してくる。


 同時に言い知れようのない居心地の悪さを感じて、何か適当なことを言って立ち去りたい気分なのだけれども金縛りにあったみたいに動けないでいた。


「あら」


 少女ーー椿は今更気づいたというように、こちらに目を向けてくる。

 寄り添うように並んだ犬彦のジャンパーの裾をくいくいと引いて「どなた?」と耳打ちしている。


「ん黒木。学校の知り合い」

「どーも椿です。犬彦がお世話になってます」

「えっと、あの、その、こんにちは……です」と声を絞り出し辛うじて挨拶を返すことができた。


俯きそうになるのをぐっとこらえて、ちらり犬彦のほうを見るが、一瞬だけ目が合ってから気まずそうにふいと逸らされてしまう。


「悪いな黒猫」

 そうして理由もなく謝られる。犬彦は強引に椿の手をとるとそれきりこちらを見向きもしないで「それじゃあもう行くから」とその場を立ち去ってしまう。


 引きずられるようにして連れていかれる椿がこちらに向かって手を振っていた。


「……えっと?」


 猫子はひとり取り残されただ呆然と立ち尽くしていた。

 何が何だか分からなかった。

 今この数分間のやりとりを反芻して、状況を把握しようとしたのだけれど頭が理解を拒絶していて、それでも何とか絞り出せたのはあるひとつの結論だった。


『悲劇が訪れる』


 あの御神籤の恋愛運の記述は嘘ではなかったのだ。賞味期限きれだろうと、凶だろうと、枝に縛ろうとも、大凶以上に恐ろしい威力を発揮してきたのだ。


「……」


 こうなるのだったら外出せずにコタツで丸くなりながら面白くない新春特番を観ていればよかったと後悔した。


 猫子は大きく溜息をつくと、先ほど以上に肩を落としとぼとぼとした足取りで友人の待っている売店の方へと戻っていった。



「なになに『百万円拾ったが浪費癖がついて寧ろ貧乏になる。過ぎたるは及ばざるが如し。一歩下がる』」


 寅子がにやにやした顔で止まったマスにある文読んだ。


 彼女が神社のバイトを終えた後、ボードゲーム部の部室に流れ込んだ。ただ遊ぶのはつまらないのでなにか正月らしいゲームをということになって始めたのがこの『大訓戒人生双六』である。


 何代か前の先輩が作ったものなのだが、これが良くできていて、とても工作用の型紙とマジックペンによる手製とは思えない出来だった。


 何より面白いのはマスに書かれている文句で、タイトルから察せらる通りいちいち人生の教えを諭すものになっている点だ。但しその多くが『おばさんをお姉さんと呼んで得をする。二歩進む』『安めの床屋で差額をごまかして臨時収入。三歩進む』などというたわいのないものだったりする。


 三人は買ってきたお菓子や自宅から持ち寄ったおせちの残りなどを広げてわいわいやっていた。ゲームはコンスタントに良い目を出した鳩子が最初に上がってしまい残った猫子と寅子の一騎打ちという状況だ。


「よーし次は私の番だな」


 猫子はサイコロを天高くかざして不敵に笑った。


「くふふふふ次で寅子にとどめを刺してやろうではないか」

「いやそれは無理だろう」

「猫っちまだ半分までしか移動してないしね」


 友人二人が冷静にツッコミを入れてくる。

 猫子はどれだけサイコロを振っても一の目が出続けるせいで、先輩のありがたい訓戒を一々読み上げる羽目になっていた。


「ふふふふ。馬鹿め。何も知らんのか。今回の私はボーナスチャンス。なんと出目が三倍にも跳ね上がるのだ」

「突然、根拠もなくそんなルールを出されてもお前が馬鹿めとしか言えんのだが」

「残念ながら我輩の辞書に『根拠』などという文字は皆無だ」

「なるほどよし事情はわかった。その代わり猫が負けたらバツゲームプラスジュースおごりだぞ」

「いいだろう」


 猫子は鷹揚に頷いた。

 手中のサイコロに期待を込め、ぽいと放るところころと転がり部室の壁まで辿り着いてから、跳ね返るとすぐに勢いを失って止まった。


 その結果、セロテープで綺麗にラッピングされた立方体の上辺は中央に大きな赤丸のある面になる。


「一だね」

「かけ算しても三か。しょぼいな」


 ある意味で期待通りの結果に猫子は、やる気がなくなって、へにゃへにゃとその場に寝そべった。


「もうどうでもよいのだ」

「おいおい力尽きるのはコマ進めてからにしてくれ」

「そいつは鳩っちゃん代わりにやってくれるらしいぞ」


 無責任なことを言うと、すこし離れた位置で硯をいじっていた友人が言う通りにしてくれる。


「仕方ないなあ……三歩ね。はい読みます。『負けるが勝ちなんて言い訳だと思う。三歩下がる』」

「さて私の番だな……六が出た。よし上がりだ」


 寅子は嬉しそうに駒を進めると「『大往生。人生の上がりって死ぬことだよね、おめでとう』」とあがりに書かれてある、ちょっとどうかと思う文を声に出して読み、勝利宣言とした。


「むう」

 猫子は頰を膨らませた。

「こんなつまらない双六なんかやらなきゃよかった」


 振ってもどうせ一しかでないし、例え他の数字が出てもろくでもないマスに止まってしまうだろうし、良い事なんかひとつもなかった。


「なんだよー。そもそも黒猫が始めようって言い出したんだろ」


 そうだった。

 確かに寅子と鳩子はすごろくは止めようと言って別のゲームを勧めていた。

 きっと猫子を気遣ったのだろう。それでも始めたのは自分が「どうしてもやりたい」と言い出したからだ。

 だから負けてもへそを曲げる筋合いなんかなかった。


「……ごめん」

「よーしじゃあ黒猫の負けだ」

「罰ゲームをしましょう」


 できるのならば友人二人には、今のナイーヴな気持ちを察して、手加減して欲しかったのだがそうもいかないらしい。


「猫っちゃん動かないでねー♪」

 鳩子がいつになく嬉しそうに、墨汁をたっぷりと浸した筆を近づけてくる。


 頬に冷んやりした感触を受けながら猫子は

「うにゃあ」と鳴いた。


 正直な話泣きそうだった。



 罰ゲームの一環として落書きをされたまま買物に行くことになった。


 目的は自販機だ。

 学校の近くにある「?」マークのついた謎の缶ジュースが置いてある自販機まで買いに行かなくてはいけなかった。


 部室棟から外に出ると、午前中まで顔を出していたはずの太陽はどこかに消え、代わりに灰色の雲が隙間なく空を覆っていた。

 少し肌寒い。何より顔の墨が恥ずかしかったので、コートのフードを目深に被って歩いた。


「……」


 猫子が双六をやろうと言い出したのには理由があった。


 無性に勝ちたかったのだ。

 勝つことで証明したかったのだ。

 本当は運が悪いわけではなくて、そもそも運なんてものはこの世には存在しなくて、これまでついてないことばかりだったのは本当に偶然でしかない、とどうしても認めさせたかったのだ。

 でも駄目だった。


「……」


 もういっそ大声を出して泣いてしまおうかと思っていると、ふいに背後から「にゃあ」と間の抜けた声がした。


「……?」

「ふふっこんにちは」


 振り返ると、そこには見覚えはある人物が立っていた。

 アイドルのように愛らしく整った顔立ち。

 野暮ったい猫子が背伸びしても真似できそうにない大人びたファッション。

 彼女のことはよく覚えている。


「えっと椿さん……?」

「黒猫ちゃんでいいんだよね?」

「なんであだ名を知ってるん、ですか」

「犬っちから聞いたんだよ。それにほっぺの髭もそう言ってる」


 猫子の顔を見つめながら笑う。

 今の自分の両頬には罰ゲームでつけられた黒い三本線が描かれていた。


「これは、そのすごろくで――」


 猫子は手で頬を隠して、ごにょごにょと言い訳をした。

 誰にも会いたくない時に、一番会いたくない人に会って、見られたくない姿を見られてしまうなんて何て自分は不運なんだろうか。


 椿とは目をうまく合わす事ができない。

 話し慣れていない相手と接するのが苦手な上に、犬彦の件もあって、彼女とはまともに会話ができそうになかった。


「猫ちゃん、辰宮さんの友達なんだってね」

「えっと寅子を知ってるんですか?」

「うん。高校上がってからはあんまりだけど家が近いから昔よく遊んでたんだよ」

「そうですか……」


 寅子は、猫子が犬彦のことを想っていることを知っていた。だから幼な馴染みである彼女は、これまで犬彦について色々なことを教えてをくれてた。

 それなのに何故、椿の存在については何も教えてくれなかったのだろう。恋人がいるなんて言っていなかったはずだ。

 なんだか裏切られた気がした。


「じゃんこれ見て、辰宮さんのところで当てた御神籤なんだよ」



 彼女が手にしている紙片を掲げて見せてくる。

 見覚えのある紙片だった。広げた紙には大きく「超吉」の二文字が入っている。


「本当は犬彦が引いたんだけど、何だかめでたそうだからがめてきちゃった」

「それ……二百六十万分の一らしいです」

「何が?」

「御神籤が当たる確率」

「へえ、そうなんだ。犬っちは変に運がいいところがあるよねえ」


 猫子は頷いた。

 犬彦は自分とは真逆の体質で、何かにつけて運がよかった。


「でも猫ちゃんには変に運の悪いところがある」

「それ犬君に聞いたんですか?」

「うん。あの子、君のことを話す時よく笑うんだ。だからこれは君にあげよう」


 椿がおもむろに猫子の手を取り、持っていた御神籤を握らせてくる。


「な、なんでですか?」

「いいからいいから遠慮せんと取っとき」


 お小遣いを押し付ける世話好きなおばさんのような事を言い出した。

 その真意がわからず困っていると、椿は急に腕時計を確認して「やば見たい特番があるからごめん」と言い出して、すぐ傍に聳え立っている高層マンションの玄関へと消えていく。


 去り際に「今度遊びにきてね」と手を振っていた。

 唐突過ぎて良く分からない人だ。



 学校のすぐ近くまで移動しただけなのに何だか物凄く疲れてしまい、目的の自販機には辿り着いた時にはぐったりしてしまった。


「……」


 それにしても自動販売機を見ると、いつも犬彦の事が思い浮かんでしまう。


 去年の文化祭の打ち上げの時だった。

 顧問からジュースを買いに走らされたとき、自動販売機に千円札を飲み込まれて戻らなかった事があった。


 あの時も、どうすることもできずに自分の不運をただただ嘆いていたのを覚えている。


「やあ黒木さん、どうしたの?」


 そこに犬彦がやってきた。

 彼もジュースの買出しの最中だったらしい。

 当時は殆ど面識もなく、共通の友人である寅子を通じてお互いを知っている程度の間柄だった。

 だが彼は事情を知ると、「たぶん何とかなると思う」と言って投入口に硬貨を放り込んだ。


「えっと……立て替えてくれるのか?」

「まあ見てればわかるよ」と犬彦はのんびりとした口調で言った。


 それからディスプレイに並んだ商品を品定めすると無糖のコーヒーのボタンをそっと押した。

 ごとりと取り出し口から缶が落ちる音が聞こえてくる。

 それから自販機の中央にはめ込まれていた電子掲示板が赤く光った。


 「ルーレット」という文字を表示し、次に「アタリ」と「ハズレ」の文字を高速で交互に出し、暫くすると電子音のファンファーレと共に「アタリ」で止まった。


 当たったらしい。


 犬彦はどうってことのないといった感じで手早く商品を選ぶと、再度硬貨を入れた。

 そして次にオレンジジュースのボタンを押すと、すぐに二度目のファンファーレが鳴り響いた。


「嘘」


 まさか狙って自販機の当たりを出せるはずがない。

 呆気に取られている猫子に、犬彦は「持っていて」と次々に缶ジュースを押し付けながら、結局実に十回もの当たりを引き起こしたのだった。


「ええっと全部で十本あればいいんだよね?」


 猫子は何も言えずにただただ頷いた。それからなんとか声を絞り出して質問をする。


「すごいな。君は魔法使いなのか?」


 その指先に特別な魔力が宿っていて、何かを押すたびに奇跡が起きるのだと言われれば容易く信じただろう。


「まさか」

「ならどうやったんだ?」

「なにも。ただこの自販機が壊れてる気がしたからいけるかなって思っただけ」

「そうなのか?」

「うんこれで三回目だから」

「ええっと三回……?」


 犬彦は言葉が足りないと気づいたらしく改めて説明してくれた。


「過去に二回こういう自動販売機に出くわしたことがあったんだ。何度勝っても当たり続けちゃうんだ。だから今回で三度目だなと思ったんだ」


 つまり前にも同じことがあったからすぐに状況を把握したという事らしい。

 疑問が解けたものの、そんな状況に立ち会うなんて信じがたいとしか言いようがなかった。


「三回も同じことが起きるなんてすごいんだな」


 ビンゴでただの列を揃えることさえ縁の遠い猫子にとっては夢のような出来事である。


「自分で言うのもなんだけど運がいいほうなんだ」

「ジャンケンとかは強いのか?」


 気になって訊いてみると、犬彦は思い出す仕草をしてから「負けたことはないよ」と言ってのけた。


「すごいな」


 猫子は目を見開いた。

 まさかジャンケンをしても負けないほど運のいい人間が地球上にいるとは信じがたい事実だった。


 そういえば寅子が、犬彦は結構運がいいと話していたのを思い出したが、結構どころではなくとんでもない強運の持ち主としか言いようがなかった。


 しかし犬彦本人はそのことに関心がないようで、よくあることだよ、どうでもいいよと言いたげな様子だった。


「嬉しくないのか?」

「あたりまえのこと過ぎてどうでもいい」

「そういうものなのか?」


 猫子にとって運が良いという事は憧れだ。

 だがそれが日常茶飯事に起きている彼が到達している心境については共感どころか想像をできるはずがない。


 それでも日頃からついていない猫子にとって運が悪いということは当たり前のことでしかなく、余程のことが起きなければ落ち込まなくなっていたので、つまり彼にとっては同じことなのかもしれないと思った。


「本当に嬉しいことは運がいいことと関係ないんだよ」

 犬彦はそっと秘密を打ち明けるようにそう告げてきた。


「……」

 その一言で猫子ははっとなった。


 他人が聞いたら何も響かない言葉かもしれなかったが、その時の彼女にとってはどんな世界の偉人が残した名言よりも心を打つものだった。


 それを聞いて、目から鱗が零れるような思いをしたことを今でも覚えている。人生観が変わったといっても過言ではないかもしれなかった。


 そしてそれは猫子にとって生涯忘れなれない一言になったのだ。



「――ひっぐ、うぐ」


 切なくなるとわかっていてもたっぷりゼンマイを巻いたオルゴールみたいに、想いと涙は自動的に流れ出してしまい止めようがなかった。


『本当に嬉しいことは運がいいことと関係ない』


 あの言葉が真実ならば、

 この胸が締めつけられるような、泣きたくなるようなつらい気持ちもまた運とは関係のない別のところにあるはず。


 ああそうだ。

 仮におみくじの効果のせいでもしくは日頃の悪運が災いしたせいで、神社で犬彦と椿の関係を目の当たりにしたのだとしても、その関係自体は元々存在していた事実であり、運は絡んでなどいない。


 そして自分の手に余るこのどうしようもない感情もただただ犬彦が好きだからの一言に尽きるのだ。


「ひっぐ、うえっぐ……ようやく分かったのだ。うへへ……運なんて関係ないんだ……ひっぐ」


 だからもう何かにつけて運のせいにすることも、運の悪さを嘆くこともやめにしよう。

 黒木猫子の人生にとって運の善し悪しなんていうものは本当に些細なことでしかないのだ、と胸を張って生きることにしよう。


「ずずっ」


 猫子は鼻をすすくり上げると、濡れた目元をシャツの袖口で拭った。


 泣けるだけ泣いたせいか気分はかなりすっきりしていた。

 見上げるといつの間にか、灰色がかっていた曇り空には黄色が混じり始めてしまっている。


「さて――さくっと買ってしまって、さくっと戻ってしまおう」


 きっと部室の友人たちは待ちくたびれているだろう。

 猫子は自販機のディスプレイに陳列された商品サンプルのひとつに目をつける。お目当ては黒一色のラベルに「?」の記号が入った缶ドリンクだ。

 温かいかも冷たいのかも分からない謎の商品は、変な飲み物愛好家である鳩子のオーダーだった。


「あ」


 さっそく小銭を取出そうとしたが財布には一円玉が数枚あるだけ。そういえばお賽銭を投げ尽くしてから補充するのを忘れていた。

 代わりに夏目漱石のお札を取り出してスロットに差し込む。

 だが何が気にいらないのかすぐに吐き出されてしまう。

 少し皺がよっているのが悪かったのかもしれないと思い、一度綺麗に延ばしてから入れてみたが同じ結果だった。


「よし」


 三度目でようやく飲み込んでくれた。

 但しどういう不具合なのか投入金額表示はゼロのままだ。

 嫌な予感がしてお釣りの返却レバーを何度いじってみたが効果はなく、お札が戻ってくる気配はない。


「うー……」


 猫子はへの字になりそうな口を堪える。

 今し方固めたはずの意思がさっそく打ち砕かれそうだった。こんなにも早く不運であることを悔やみたくはなかった。


「まったく猫は相変わらず運がないんだな」


 ふいに低いけれどよく通る声がして、背後から手が伸びてきた。


 数枚の硬貨が投入口に飲み込まれていく。

 迷わずにその指がホットコーヒーのボタンを押すと、騒がしい音がして代価と引き換えに商品が落ちてきたことを告げる。


 それからどういう原理かは分からなかったがぺーと飲み込まれたはずの千円札が吐き出されてきてきた。


「ほら出てきたよ」

「犬君じゃないか。どうして君がここにいるんだ?」

「どうしてって家がこの近くなんだよ。たまたまコンビニ行こうと思って通りがかったら猫を見かけたんだ」

「成る程」

「それで謝ろうと思ってさ」

「謝る? 何をだ?」


 むしろ自分が今助けてもらった礼を言うべきではないのだろうか。

 犬彦は少しだけばつが悪そうな顔をして、頰を書きながら言いにくそうに言う。


「いや、その今朝いきなり話を切り上げただろ。気を悪くしてるかもと思ったんだ」

「べつに悪くしてないぞ」

「椿が絡んできたから仕方なく離れたんだ」


 確かに誰しもああいう状況を学校の知り合いに見られれのは気まずいものなのかも知れない。


「椿のやついつもああだから正直迷惑してるんだ」

「犬君は彼女が好きじゃないのか?」

「正直、この年齢でベタベタ甘えられるのはどうかと思うんだ」

「むう。好きだったら甘えたくなるのは当然だ。犬君もそれに応えてやらなくちゃ駄目じゃないか」

「猫、何か怒っている?」

「ふん怒ってなどいない。いるものか。それは犬君の大きな勘違いだぞ」


 犬彦はすこし驚いた顔をしている。

 猫子は自分の心のうちを曝け出しているようで恥かしさと怒りの気持ちが混ぜこぜになっていた。


「でも、そういうことは二人で話し合うのがいいと思う」


 猫子はそう付け加える。

 少しつけ放した固い物言いになってしまったので、言い繕おうとしたけれど、そんなことをしても虚しくなるだけだと思い止めた。


「ああそうだ」


 犬彦がふいに顔を上げるとズボンのポケットの中に手を入れた。


「猫にあげようと思ってさ……あれ?」

「なんだ?」


 ポケットから目当てのものが出てこないらしく、犬彦は「ちょっと待っててくれ」とあちこちあさり始める。それでも見つからない様子だ。


「おかしいな……なくしたかな」と残念そうに言った。

「猫にぴったりのラッキーアイテムなんだけどさ」

「ラッキーアイテム?」


 心当たりがあり「もしかしてこれのことか?」と椿に押し付けられた御御籤を取り出してみた。


「それ、どうして猫がもってるの?」


 驚く犬彦。

 それは彼にしては珍しく表情のある顔で、猫子はすこしおかしくなって笑った。


「さっき椿さんに会ったんだ。それでもらった」

「なんだそうか。じゃあそのまま貰っておいてくれ」

「いや気持ちは嬉しいけど、でもこいつは犬君に返すぞ」


「なんでだ?」犬彦はよく分からないといった顔をした。


「私には必要ないものだからな」

「そうか? 猫でも持っていたら御利益があるかもしれないぞ?」

「いいんだ」


 たぶんこんなものを持っていればいつまでも犬彦への想いを引き摺ることになるだろう。

 ただそんなことを本人に言えるわけもなく、代わりにとっておきの話をするように満面の笑顔を作って「犬君にひとついいことを教えてやろう」と告げる。


「いいこと?」

「そう幸せになる為のヒントだ」

「ほう」

「本当に嬉しかったり哀しかったりすることにはな、運の良し悪しは関係がないんだ」


 それが前に犬彦自身が口にした言葉であると気づいたかは分からない。


 ただ彼は至極真面目な顔で「もっともだ」と同意してから、御神籤を受け取った。


「その言葉には全面的に賛成だ」

「そうだろ?」


 それから千円札の礼を言って目的のジュースを三本買うと「それじゃあもう戻るぞ」と立ち去ることにした。


 長居していても仕方がない。早く帰らないと鳩子の土産である温かいオレンジジュースが冷めてしまう。


 猫子が「さよなら」と言って立ち去ろうとすると「あのさ」と呼び止められる。


「一応言い訳しておくけど、あいつがブラコンなだけでおれは違うからな?」

「うんわかったぞ」


 猫子はそう言いながら犬彦へ手を振り、三歩ほど歩いた後にようやくその言葉の意味を咀嚼する為に止めた。


「………………え?」


 最初は幻聴かもしれないと疑った。いやだが聞き間違えでもなく彼は確かに『ブラコン』という語彙を使った。

 それを犬彦と椿の関係表す言葉として使うと言うことはーー。

 少し考えてから遠まわしに確認してみる事にした。


「……ところで犬君の御姉弟は椿さん以外にもいるのか?」

 犬彦が「まさか」と肩をすくめる。

「他にもあんな姉がいたら大変だよ」

「そ、そうか。つまり犬君と椿さんは御姉弟の関係なんだな?」

「え。そういう話をしていたんじゃないの?」

「……」


 猫は全身から力が抜けてきて膝をつきそうになった。

 つまり自分は今の今まで壮大な勘違いをしていたらしい。

 意味もない不運を嘆き、勝手に失恋したと思い込んで落ち込み、悲劇のヒロインを演じていたとんだ道化師だったというわけだ。

 いやはや早合点するものではない。

 だがしかし本当に――


「あー……」

「ん?」

「犬君」

「なんだい猫」

「えっとだな。良かったらこれから部室に遊びに来ないか? 寅子や鳩子とボードゲームをやっているんだが」


 犬彦はどういう風の吹き回しなのだろうという顔で、けれども快く「じゃあちょっとだけ顔出すよ」と頷いた。


「あとな」

「うん?」

「先程の御神籤をくれ」

「え、いらないんじゃなかったの?」

「何を言っているんだ犬君。超吉なんだぞ。二百六十万分の一ラッキーアイテムなんだ、いるに決まってるじゃないか」

「いやだってさっきは……まあいいや。相変わらず気まぐれだな、猫は」

「そうだ私は気まぐれなんだぞ」


 本当に良かった。

 猫子は気が緩んでまた泣きそうになるのを、にいっと笑って誤魔化した。


 これから先どれだけ不幸な目に遭おうとも全然へっちゃらだ。

 何故なら目の前にいる彼こそが猫子にとっての幸福だったからだ。

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